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エリザベス洋装店のブログ

248年の皆既日食と天岩戸伝説

古代では天災も厄病も飢饉もすべて王者の責任と考えられていた。古天文学の創始者で元東京大学東京天文台教授の斉藤国治氏は神話の<天の岩戸隠れ>が皆既日食のことではないかという仮説を立てた。<天の岩戸隠れ>とは、弟スサノオの乱暴な行為に腹を立てた天照大神が天岩戸の隠れると、世界が真っ暗闇に包まれたというものだ。紀元158年と248年に皆既日食があったことが分かった。紀元248年は、卑弥呼が死んだと記録されている年だ。これは偶然の一致だろうか。卑弥呼が死んだ248年にたまたま皆既日食が起こり、そのために卑弥呼の死が<天の岩戸隠れ>という神話になって長く記憶されるようになったのではないか。卑弥呼が<日巫女>(ひみこ)で<太陽神>としてあがめられていたとするならば、皆既日食を古代人はこう考えたに違いない。<卑弥呼の心がけが悪いから、そういう不吉なことが起こるのだ>と。これでは狗奴(くな)国との戦争に勝てるはずがない。かくして大敗北を喫した邪馬台国は、役に立たなくなった王女を殺害したのではないか。だが、この死によって、卑弥呼は日本史の中に永遠にのこることになった。卑弥呼としてではなく太陽神、天照大神として。実は、それを裏付ける傍証がもう一つあるのだ。

卑弥呼の正体は天照大神である。

<魏志倭人伝>にその名を残しながら、日本の史料に<卑弥呼>の名は見当たらない。そこで、<古事記><日本書紀>に登場する女性のだれが卑弥呼かと様々な説が唱えられてきた。江戸時代までは、神功皇后こそ卑弥呼その人だと考える説があった。<日本書紀>の神功皇后紀の中で<魏志倭人伝>から引く形で<魏志に<明帝の景初三年六月に、倭の女王は、大丈難斗米(なんとまい)らを派遣し、と見えるからだ。宮内庁が箸墓古墳(奈良県桜井市)の被葬者に比定している倭迹(やまと)迹日(ひと)百襲(ももそ)媛命(ひめのみこと)もまた、卑弥呼の有力候補として名前が挙がる。<日本書紀>の崇神天皇紀には、倭迹迹日百襲媛命に神が乗り移り、崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を担っていたことが描かれている。しかしもっと有力なのは<卑弥呼=天照大神>説を置いてない。哲学者和辻哲郎は1920年(大正9)、<日本古代文化>で述べている。<例えば、天照大御神は高天原における君主であられるとともに自ら祭儀をつかさどられる神である。祭司であるとともに君主であるという点は倭女王が鬼道によって統治するのと軌を一にする。>アマテラスは、<古事記>では<天照大御神>、<日本書紀>では<天照大神>と帰されているが<日本書紀>ではもう一つ<おお昼目の無知>という別名も記されている。(イザナキノミコトとイザナミノミコトは)是に共に日神(ひのかみ)を生みたまふ。おおひるめのむちと号す。日本書紀の筆者は、天照大神は巫女である、と言っているのだ。<日神>とは<太陽神二仕える巫女>ということになる。卑弥呼は<魏志倭人伝>によれば、<鬼道を操る>宗教的機能者として描かれている。仮に<卑弥呼>が<日巫女>だとしたら、天照大神と同じ<太陽神に仕える巫女だったことになる。そして、それが<日御子>だとしたら、神そのものの化身。まるで天照大神と卑弥呼は同一人物ではないか。そして、その答えは神話と現代科学の中に秘められていた。

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた4by鶴田真由

目に見えない神様界の出来事は、現世から一枚、ベールの向こう側で繰り広げられているように思うのです。これが先ほど話したパラレルワールドと感じるところです。丁度、宮崎駿さんの<千と千尋の神隠し>のように。あのお話では川の向こう側に神様界がありました。向こう(神様界)が変われば、こちら(現世)も変わる。どこか表裏一体になっていて、向こう側の世界が反転することで、こちらがわのせかいをつくりだしているように思うのです。だから今回のように、”国つ神を代表する神社”と、”天津神を代表する神社”の遷宮の日取りが反転していたとすると、そこに何らかの暗号が秘められているようで、わくわくしてしまうのです。きっと神様はそうやって、ちょっとだけ、ひっかけ問題のように向こうの世界からこちら側にこっそりと”お知らせ=暗号”を届けるに違いない!そう信じたくなってしまうのです。だとすると、その表れが現世にどう映し出されたのかを探し出したくなってしまいます。

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた3by鶴田真由

そして、2012年には<古事記>編纂1300年を迎え、翌年の2013年になると、日本を代表する出雲大社と伊勢神宮が、それぞれの遷宮を迎えました。遷宮とは、お宮を建て替える御祭り(-儀式)のことです。出雲大社では60年に一度行われているように思えますが、応仁の乱で伸びたり、第二次世界大戦で伸びたりして、今回は1953年以来の同年の御祭りでした。出雲大社では5月10日、伊勢神宮(外宮)では10月5日と、面白いことに数字が反転した日に行われました。(5/10,10/5)とまるで、数字が鏡に映し出された絵のように重なったことから仲たがいをしていた出雲の国つ神(地上を収める神様)と伊勢の天つ神(天上界を収める神様)の間に<結び(和解)>が行われたとも言われています。<古事記>の中に、こんな事件がありました。出雲の地を収めていた国つ神は、<ここは我々が治めるべき地である>と天上界にいた天津神に言われ、無理やり国土を譲らされたのです。それ以来、国つ神と天津神の間には目には見えない亀裂が生じていたのです。

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた2by鶴田真由

最初は日本の神話<古事記>を読み解きながら、その舞台となったところを訪ねていきました。<聖地>と呼ばれる場所には必ず物語があります。そしてその物語には神々の思いが集積していました。それは遠い遠い昔の記憶の集積でありながら、同時に<いま>にもリンクしている。そんなパラレルワールドのような場所だったのです。<古事記>の旅が終わったのは、忘れもしない2011年3月11日。伊勢神宮内でのことでした。携帯にニュース速報が入り、それぞれが家族の安否を確認した後、とりあえず海からは離れようと内陸にはいり、ビジネスホテルで荷を下ろしたのは午後7時過ぎ、皆で寄り添うようにして一部屋に集まり、テレビの映像を見た時の衝撃は一生忘れられないと思います。津波に町が呑み込まれ、コンビナートが火の海となるさまは目を覆いたくなるようなものでした。