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エリザベス洋装店のブログ

宗教を超えた地球のお祭り1byべネシアスタンリースミス

キリストの誕生日は西暦1年の12月25日だと思われている方が多いと思います。ところが、キリストの誕生日がいつなのか聖書には書かれていません。実際のところ、西暦1年12月25日ではないという説が多いようです。西暦1年がキリストの生まれた年と決められたのは、ずっと後の西暦325年のキリスト教会の会議(第一回ニカイア公会議)でのことです。キリストが生まれた年は紀元前8年ごろから西暦1年ごろまでの間ではないかという説があるようです。また、12月ではなく4月から9月までの間ではないかとも言われています。天使により救い主の降臨を知らされた羊飼いが、キリストの誕生のお祝いに小屋に来ましたが、すぐに夜中のヒツジの見張りに戻っていったと聖書に帰されています。当時のベツレヘムでは4月から9月まで羊を放牧し、冬の間は羊を小屋に入れていたということです。古代ローマでは農耕の神サトゥルヌスを崇める(サトゥルナリア)というお祭りが12月17日から24日までの一週間、もようされていました。冬至の日まで弱くなり続ける太陽をサトゥルヌスが復活させてくれることを祝うお祭りです。その頃のローマ帝国では太陽信仰のミトラス教が多くの人々に受け入れられていました。サトゥルナリアの翌日の12月25日は太陽がよみがえる日とされ、ミトラス教では最も重要な祭日とされていました。人々は家の出入り口やテラスをローズマリーやゲッケイジュなど、永遠の命の象徴とされる常緑樹の葉で飾りました。このようなハーブは邪悪なものから家を守る魔除けになると信じられてきました。人々はローソクや小さな人形を贈り物として交換し、また富める者は貧しい隣人たちにお金や衣類を施す習慣もあったようです。1月1日を過ぎると<カレンズ>という古代ローマの新年のお祭りが始まります。この時期にも友人、親せき、子供たち、召使いの間でプレゼントの交換が行われました。太陽の象徴としてランプを送ったり、甘く平和な一年が過ごせるようにお菓子やはちみつが贈られたり、また、さらなる繁栄と金運を祈って、金や銀を送ることもありました。プレゼント交換の習慣はその後も受け継がれ、今ではクリスマスに欠かせない行事となっています。一方ヨーロッパでは北ヨーロッパを中心に<ユール>と呼ばれる冬至の祭りが12月6日から1月6日まで模様されていました。農耕や狩猟の収穫への感謝と翌年の豊穣祈願の祭りです。ローマ帝国はヨーロッパ全土に進出していく過程で、ヨーロッパ先住住民を兵士にしていきました。兵士になった先住民の多くはゲルマン人だったので、ゲルマン人の生活や風習などが、ローマ帝国へも影響を及ぼしたようです。

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?4.

一方で、仏教もまた日本の風土に適するように形を変えていく柔軟さがありました。在来の神々は、病気平癒や一族の安泰といった現世利益的な願いをつかさどる存在でした。仏教はそうした役割を受け入れていったのです。6世紀末から7世紀の初めにかけての飛鳥時代には、豪族らが古墳に代わって寺院(氏寺)を建立しました。例えば、蘇我氏の氏寺である奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺)の塔の下には、勾玉(まがたま)や武具といった古墳の副葬品と同様の品々が埋蔵されていたことが確認されています。これは、祖先を祀り、一族の権勢を誇示するという古墳の役割を寺院が引き継いだことを示すものです。また大阪市の四天王寺は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)が物部氏との戦いに祈り、勝利を得たので創建されたと伝えられています。このように仏教は当初、現世利益をかなえる呪術として受け入れられました。そして8世紀の奈良時代には、戦乱や疫病から朝廷を守る鎮護国家の役割を担うようになります。煩悩を滅して悟りを得るという仏教本来のあり方からすれば、それは<変質>と言えるでしょう。しかし、人々の望みにこたえる<しなやかさ>があったからこそ、仏教は日本の風土に根付き、在来の神々とも<共存>できたのです。

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?3.

<仏教の伝来>(西暦538年)(552年説もあり)百済の聖明王が欽明天皇に仏像、経綸を献じる(仏教公伝)、(西暦594年)仏法興隆の詔(みことのり)、(西暦604年)憲法17条<篤く三宝、仏、法、僧>を敬へ、(西暦607年)厩戸皇子(聖徳太子)、斑鳩寺(いかるがでら)(法隆寺)を建立、(西暦680年)天武天皇の発願により薬師寺の造営開始、(西暦741年)国分寺建立の詔、(西暦743年)大仏造立の詔、(西暦752年)東大寺で大仏開眼供養会、(西暦753年),唐僧、鑑真の来日(戒律を伝える)。

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?2.

在来の神々への信仰と、伝来した仏教との融合(神仏習合)は早くも奈良時代からみられ、神宮寺の建立や神前読経が行われました。そして、現代においても、七五三など人生の節目には神社にお参りし、祭儀は仏式で行うというように生と死の領域で両者はすみ分けられています。こうした<共存>が可能となった背景には、日本独特の宗教的風土がありました。中国、朝鮮半島を経由して日本列島に仏教がもたらせたのは、古墳時代後期の6世紀半ばのことです。当時の大和政権と密接な関係にあった百済の聖明王から仏像、経論が献上されると、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏による争いを経て、仏教は外国から渡来した神<蕃神>(あたしくにのかみ)として受容されます。豊かな自然に恵まれた日本の国土では古来、自然物や自然現象に神(霊魂)の存在を認めるアミニズムが発達しました。たとえば福岡県の宗像大社、沖津宮は玄界灘の沖ノ島を、奈良県の大神(おおみわ)神社は三輪山をご神体として祀っており、いずれもその周辺から古墳時代の祭祀(さいし)遺跡、祭祀遺物が発見されています。このようにして多数の神が存在する日本の宗教的風土は、仏を神の一つとして受け入れる寛容さを持ち合わせていました。神の原像を共同体の外部から訪れて恵みをもたらす<まれびと>に見出したのは国文学者の折口信夫ですが、仏教の仏はまさに<まれびと>としての神だったのです。

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?1.

問題、日本列島に仏教が伝わると、在来の神々への信仰もいろいろな影響を受けることになった。在来の神々への信仰と仏教の間には違いがあったにもかかわらず、両者の共存が可能となった理由について、60字以内で述べなさい。(2015年度、東京大学、改題)。正解、自然物や死者の霊を祀る多神教的な風土の下、仏教は在来の祖先崇拝と結びつき、呪術的な信仰として受容されたことによる。(57字)