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エリザベス洋装店のブログ

ケルト民族 ④by和久井光司

アイルランドに生まれた人々が、アメリカに新天地を求め、大量の移民となって海を渡るのが日常的になったのは19世紀の半ばからだが、(それまでにもすでに約200万人のケルト人がアメリカに渡っていたが)。移民船のピークは1850年代から1920年代だった。そのもっともポピュラーなコースは南アイルランドのコーク、もしくはダブリンや、北のベルファストからマン島、リヴァプールを経て、ロンドンに近いサウザンプトンやイングランド南西部のプリマス、フランスのシェルブールなどによって大西洋を渡り、ニューヨークやニューオーリンズにたどり着くというものだった。1911年5月に完成したあのタイタニック号は、リヴァプールで、1845年に創立された航海運輸会社<ホワイトスター社>が、ベルファストの造船会社<ハーランドアンドウルフ社>に造らせた(オリンピック号に続く)2艘目の豪華客船で、母港はリヴァプールである。リヴァプールからニューヨークへの船旅は約3週間。船底といっていい三等客室にはアイルランドからの移民を満タンにしていた。大ヒットした映画、(タイタニック)でも、アイルランドからの移民たちの【イングランドの上流階級とは明らかに違う】超文味嗜好を象徴するようにバグパイプやフィドルやティンホイスルといった楽器で伝承音楽が演奏されるシーンが挿入されている。移民とともに海を渡ったアイルランドの音階やリズムは、イングランドや北アイルランドの音楽に大きな影響を与えていくわけだ。英国のbbcは1991年にアイリッシュミュージックのドキュメンタリー<ブリンギングイットアールバックホーム>を制作して、cdや書籍も発売。ウォルトディズニープロダクションは、1998年に、アイルランドからアメリカに渡った移民が、新天地でどう生きてきたかをテーマ視した5時間45分にも及ぶドキュメンタリー<ジ、アイリッシュ、イン、アメリカ、ロング、ジャーニー、ホーム>を制作した。そういった”素材”がそろったことで、音楽ファンの間で、にわかに高まってきていた伝統的なケルト音楽の見直しが一般層にまで広がり、1990年代半ば以降はわが国でもアイリッシュミュージックがかってないブームになっている。アイルランド移民の末裔が4,000万人にも及ぶといわれるアメリカ合衆国で、”アイリッシュルーツ”の再発見が促されはじめたのは1980ねんだいなかばごろから。1980年にダブリンから登場したロックバンド、u2の人気がアメリカで爆発し、世界的なグループになったのは1983年の事だが、アイルランドを南北に分ける長い宗教戦争や<血の日曜日事件>を題材にした彼らの歌は、アイルランドを故郷とする我執国国民に衝撃を与えた。u2は<time>誌の表紙を飾ったビートルズ以来のロックバンドとなり、社会的にも大きな影響力を持つようになる。1988年には、アイルランド移民が持ち込んだケルト音楽と、アフリカから来た奴隷がアメリカで作り上げた黒人音楽が合体して、ロックが生まれた>という事実を検証するために、u2自身がアメリカを旅して歩く映画<ラットルアンドハム>【魂の叫び】>と、そのサウンドトラック盤を完成して世界的なヒット作にした。u2はビートルズはグループで果たせなかった”宿題”を、見事に形にしたのである。その宿題とは何か?

ケルト民族 ③by 和久井光司

こういった事実を挙げていくと、われわれ日本人にはナショナリズムなんてないんじゃないかとさえ思えてしまうが、ケルト圏の中で最も強固なナショナリズムやアイデンティティを表出しているのがアイルランドであることは間違いない。ケルト民族固有の文化がどこよりもはっきりと残ったこの島国こそが”ビートルズの故郷”であるという点は、彼らの音楽や思想また人間性を解く、”最大の鍵”だろう。1921年の一大蜂起の後、南アイルランド(エール共和国)は、独立を果たした。カトリックが圧倒的に優勢な共和国は自由化を推し進めていたが、プロテスタントが多いアルスター地方を擁する北アイルランドでは宗教的な対立がむしろ激しくなった。人口の32パーセントを占める北のカトリック教徒は、プロテスタントの支配的な政策に苦しめられ、移住を余儀なくされてきた。1960年代にはアメリカのそれに呼応するような公民権運動がおこったが、1968年8月、デリーのカトリック地区が警察の管理下に置かれることを拒んだのに端を発して抗争は再び激化し、新たな暴力の時代が始まった。IRAによる爆弾テロが、不定期で行われる花火大会のようでさえあるのが残念だ。しかし、鎖国時代のわが国や数百年までの東欧諸国、もしくは朝鮮を隔てたような”壁”はアイルランドにはなかった。凍てついた実りのない土地は、生まれてくる子供たちの全てには恵みを与えられないから、人々は出ていかざるを得ないという現実的な事情もあったが、ケルト人が漂白していく、根無し草的な生き方に疑問を持たない民族であることは歴史が証明している。

ケルト民族 2by 和久井光司

1536年から1801年にかけて英国は一連の連合(合邦)法を制定する。最初はイングランドとウェールズ(1536年)、次にイングランドとスコットランド(1707年)最後に英国とアイルランド(1801年)の間で連合に関する条約を結び名目上は一つの国家となった。これが本章で書いた<グレイトブリテン及び北部アイルランド連合王国>である。しかし、2000年を優に超える歴史を持つケルト民族の文化は、名目上の国家なんかによって変更されるわけがないアイデンティティを人々の心に築きあげているのだ。グレイトブリテン島は日本よりはるかに小さな島だし英国全体の人口の約半分である。ところがスコットランドではスコットランド国民党(snp)が、ウェールズではウェールズ国民党(プレイドキムリ)が連合王国からの分離独立を掲げて闘争している【ウェールズで1979年に行われた国民投票では圧倒的多数で分離案が否定されているが)。リバプールとアイルランドの間に浮かぶ人口5万人の小さな島<マン島>ももちろん連合王国に属しているが、この島には独立の政府や通貨があるし、イングランド南西のコーンウォール地方のケルト人たちもかってはは独自の言葉を話していたという。1971年の調査では。スコットランドの人口518万人のうち1,8パーセントの人がゲール語しか話せなかった人が338人いた。ウェールズでは人口264万人のうち51万人がウェールズ語を話し、ウェールズ語しか話せなかった人が、3万2725人いたそうだ。また1532年に、フランスに併合されたブルターニュにも独立を求めるブルターニュ解放戦線(flb)が存在し、未だに【細々だが】活動を続けている。

ケルト民族 ①by 和久井光司

ヨーロッパの先住民であったケルト人は、ローマ時代以前には、ピレネーからライン地方にかけて、またアイルランドからルーマニアにかけてという広大な地域に住んでいた。蛮人とされた彼らは、前1世紀から後1世紀にかけてローマ軍と戦い、抑圧されて、スコットランド,ウエールズ、アイルランド、アルモニカ(フランスのブルターニュ地方)などにわずかな分派を残すのみとなってしまうのだった。後43年から84年にかけて行われたローマ軍のブリテン島侵攻とギリシャローマ文明を5世紀に消滅させるゲルマン人の侵略がイングランドを生んだわけだが、アイリッシュ海で隔てられた”最果ての地”アイルランドには古代からケルト文化が数多く残ることになる。数々の英雄譚や神話、民話は、修道士によって語り継がれ、のちの文学や音楽の”元ネタ”にもなった。17世紀までのアイルランド社会で最も興味深いのは二種の人々が文学と音楽に責任を与えられていた、ということである。バード(吟遊詩人)と呼ばれる人たちは主人を讃えるために詩作を行い、フィリド(預言者が語源)と呼ばれる、超自然的な力を備えた人々は、風刺や諧謔(かいぎゃく)によって民衆を傷つけたり、時には殺したりすることを許されていたという。バードとフィリドを育てたのは専門の養成所である。そこではすべての教育が口伝によって行われ、教師が音階をつけて歌った言葉を、生徒たちが繰り返し唱和するという方法が用いられたらしい。古アイルランド語の<教える>という言葉は、<歌い上げる>を意味していたそうだ。養成所で資格を得たフィリ(フィリドの単数形)は、自由に旅ができたし、行く先々で詩を詠んでは報酬を得ていた。キリスト教の伝播によってフィリドの呪術的な力は失われていったが吟遊詩人の養成所は10世紀、12世紀になっても活況を呈していたという。修行に20年を要した<詩人>は名誉職であり、厳しい世襲制度によって伝統は守られていた。青年時代をアイルランドで過ごした12世紀の<ウェールズの王、グリフィド アプキナン>は、故郷に戻る際にアイルランドから詩人の楽師を連れ帰ったらしい。彼の庇護によって、この時期、ウエールズに詩のルネッサンスがもたらせたとも言われている。

漣 健児②弘田三枝子の<ヴァケイション>

弘田三枝子の<ヴァケーション>はイントロはなく4小節のバース(楽曲の冒頭部分の序奏)”v-a-c-a-t-i-o-n 楽しいな”で始まる。以下ababca間奏babbという構成で、注目すべきは、”冬は楽しいスキーに”のcパートである。70年代以降に大サビと呼ばれるパートが歌謡曲に登場するが、<ルイジアナママ同様にこの楽曲構造は当時の日本には存在しなかった。コードも9thやdimが随所に配置されて迫力のあるサウンドを演出している。演奏はビッグバンドで全盛期の宮間利之とニューハードオーケストラ。楽曲の核は、Bパートのバースである。原曲ではすべてのBパートのバースで”v-a-c-a-t-i-o-n”と繰り返されているが、漣健児は冒頭とエンディングのみ原曲を生かして、歌中のパートでは”v-a-c-a-t-i-o-n"を”待ち遠しいのは○○休み”と日本語に置き換えている。原曲にとらわれない自由な詩作。これこそが漣流ポップスの真骨頂である。この時期、ロカビリーブームを背景とする音楽先端の若者文化を日本語化してヒットを創出するためには、いくつかの課題があり、どれも<歌詞>と深く関係していた。それはまず言葉とリズム・メロディーの親和性を高めることであり、次に歌詞の中身、すなわち歌のテーマや内容である。そしてもう一つの別の次元で歴史的な西洋崇拝から導かれる英語と日本語の無意味なヒエラルキーが厳然と存在していた。つまり英語で歌うこと=かっこいい=日本語は野暮ったい、という風潮である。これらの問題を同時に解決したのが漣健児の歌詞世界と、そのレパートリーを歌う坂本九であり、飯田久彦であり、田代みどりであり、そして弘田三枝子である。彼らのヴォーカルスタイルは符割やアクセントの配置、発声法によって楽曲のニュアンスがかなりの幅で変貌することを示しただけでなく、伝統的な詩歌とは無縁の漣健児の言葉が<うた>として十分に機能することを体現している。漣健児による歌詞の最も大きな特徴は文芸詩からの完全な<逸脱>である。それは音楽のインフォーマライズ=カジュアル化の先駆けでもあった。漣健児の際立った優秀性はそのように、従来の歌謡曲には全く無縁の世界を独自に展開して、かつ若者の大きな支持を獲得したところにある。弘田三枝子はその後も1964年のコロンビア移籍第一弾の勝負作である漣健児訳詩の<砂に消えた涙>が期待に違わず大ヒットとなり、楽曲面でも新境地を開拓した。その後一時期ヒットにめぐまれなかったが、1969年には<人形の家>がヒットチャートの1位を獲得する大ヒットとなり、カムバックした<人形の家>は川口真の初ヒット作である。