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エリザベス洋装店のブログ

稲妻=プラズマの正体

そもそも雷=放電は、どういう仕組みなのか?雷が起きた際の光のことを<稲妻>という。音は<雷鳴>だ。この<稲妻>の語源は、雷が発生する季節に稲が実るという一致から、雷=稲をはらませる=妻なので<稲妻>という説が強い。尚、雷はどのように発生するのかというと、実はまだ解明されていない部分もあるが、帯電した状態【電子の欠損または過剰)になっている雷雲による放電だ。雷雲の中では、小さな氷の粒が<プラスの電荷=電子の欠損>になっていて、大きな氷の粒(霧=あられと呼ばれるもの)が<マイナスの電荷=電子の過剰>になっている。このような大気の状態をプラズマというが、ここからマイナスの電荷になっている霧がプラスの電荷になっている大地に向け過剰になっている電子を送り込むのだ。これが放電で、稲妻になる。また、雷雲を別の面から説明すると、物質は温度によってその姿を変えるので、雷雲も低温から順に個体(水=マイナス10度)から液体(水=20度)から気体(水蒸気=100度)から高温の気体(ガス=3000度)という形を見せる。最後の段階が<第4の物質>とされる状態で、これがプラズマ=イオン化した気体だ(イオンとは帯電した状態の原子のこと)。雷雲を細かく分解していくと、そういう物質が現れるわけだ。雷や落雷は、例えば上空5,500mあたりにマイナス18度の冷気があり、地表近くで30度の暖気があるといった条件下で発生する。

雷で植物が育つ

名古屋市に本部を置くプラズマ核融合学会が実施した高校生シンポジウム(2016年8月18日)において、<科学とプラズマ>をテーマに発表会が行われた。その中で、最優秀ポスター発表賞に選ばれたのは、島根県の私立開星高校3年、池田圭佑君による<雷が鳴ると植物は成長する>という発表だった。宮沢賢治が農学校の職員時に<雷と作物の関係>を授業していたことに触発され、2年生の冬から研究を始めたという。池田君は<放電を行った水道水=放電水で栽培した種と、ただの水道水で栽培した種では、成長に明確な差がある>というデーターを得た。放電水で栽培したカイワレ大根の発芽率は1,7倍、芽の伸びは2倍もよかったのだ。この差異が生じた理由は<水に含まれる窒素の量が違うからではないか>という仮説を立て分析したところ、放電水の方が窒素を1,5倍も多く含んでいた。窒素はリン酸、カリウムとともに肥料の三要素。雷が落ちると空気中の窒素が固定化され、作物が利用しやすくなるという仕組みを実験で解き明かしたかたちだ。さらに池田君は、<放電を行ったカイワレ大根の種と、していない種を比べると放電された種の成長が約2倍も速い>という実験結果に行き着いた。この因果関係は専門家でも解明できていないが、古くから農家で言われている<田畑に雷が落ちると作物がよく育つ>という伝承を、高校生が真実として突き止めたことになる。

ポールマッカートニーとロンドンアンダーグラウンド文化人たちとの交流3

手に入れた建物をブックショップとギャラリーに改装する際に、マイルズとダンバーは電気配線工事をメイソンズヤードに住んでいたイアンソマーヴィルに頼んだ。ソマーヴィルは、<裸のランチ>や<ジャンキー>で知られるビート作家、ウイリアムバロウズの昔のボーイフレンドで<ノーヴァエキスプレス>と<爆発したきっぷ>の共作者であるビート作家でもある。彼はセントジェイムズのデュークストリートにバロウズが持っていたアパートで、新しい恋人アランワトソンと暮らしていた。ダブリン出身のポップシンガーソングライター、イアンウイットカム(なんと30年後映画”コンタクト”で宇宙船を爆発させるテロリスト役で再登場)がアメリカでヒットさせた<ユーターンミーオン>をカセットで流しながらインディカを改装したというソマービルは、やがてポールとも仲良くなり、66年ポールが作ったプライベートスタジオ(生活の場になっていたアッシャー家ではなく、リンゴーの持ち物で彼が結婚したため空き家になっていたアパートを借りた)のエンジニアになった。ソマービルを通じて、バロウズとも親しくなったポールは後に、そのスタジオに彼を招いて、バロウズの朗読に音楽をつけたりするようにもなる。ポールはインディカのオープンを知らせるチラシの図案つくりにも協力した。そのとき<ブックショップ>の包装紙をデザインし、二日も家にこもってこれを仕上げた。66年4月には地下のギャラリーで初めての展覧会を開催できるようにまでなったインディカだが、ビートルズが訪れることも評判になり、ブックショップはすぐに手狭になってしまう。マイルズはギャラリーはそのままメイソンズヤードに残して、サザンプトンロウ12番地に新しい大きなブックショップをオープンする。1966年夏のことだ。このころ、マイルズは友達のジョンホプキンスを誘ってアンダーグラウンド新聞<IT>(いんたーなしょなるたいむず)を創刊。ブックショップの地下をその編集室にした。ポールはひまをみつけてはへんしゅうしつにかおをだし、<IT>に寄稿もするようになる。1966年3月ポールはジョンを初めてインディカに連れて行った。ポールと同じようにそこに出入りするようになったジョンはブックショップで手に入れた様々な本を愛の冷めた家庭で読みふけるのだった。それはギャラリーで個展を開いたヨーコオノと出会う半年以上も前のことだった。ジョンの内容がサブカルチャー系の書物やドラッグの効果と結びついた時、彼はオルダスハクスリーの言う”知覚の扉”を開けたのである。

ポールマッカートニーとロンドンアンダーグラウンド文化人たちとの交流2

大学を卒業すると美術評論家になっていたダンバーは、チャリングクロスロードの大書店ベターブックスでペイパーバック部長を務めていたバリーマイルズと友達になっていた。ベターブックスのオーナーはペンギンブックスの敏腕編集長、トニーゴドウィンだった。彼はビート詩人・作家の作品を次々とペンギンのカタログに加えていった先鋭的な感覚の編集者で、ベターブックスでは、詩の朗読や、ケネスアンガーやブルースコナーの前衛映画の上映会、そしてアヴァンギャルドアートの展示会なども開いていた。そこはロンドンでは数少ない【ほとんど唯一ともいえる】アンダーグラウンド文化の発信基地だったのである。ところがゴドウィンは突然ベターブックスの経営権をハチャーズという大資本に売却してしまった。イヴェントの企画も担当していたバリーマイルズは、ベターブックスの崩壊がアーティストたちの横のつながりに影響してしまうことを懸念して、自力で新しい書店をオープンする計画を立てた。これに資金協力したのがピーターアッシャーとジョンダンバーだったのである。三人は600ポンドずつ出し合って”mad"(マイルズ、アッシャー、ダンバー)という会社を設立すると、メイソンズヤード6番地(ビートルズやストーンズの遊び場でもあった<スコッチオブセントジェイムズナイトクラブ>の隣に<インディカブックショップ>をオープンし、地下のスペースをギャラリーとして使うことにしたのだ。MADを立ち上げてからインディカを開店させるまでの短い間、マイルズはアメリカから仕入れた本をアッシャー家の地下倉庫に預けていた。それをわきで見ていたポールは彼らの活動に興味を持ち、自ら進んでインディカブックショップの顧客第一号になったのである。ポールが最初に買ったのは、フィンランドの詩人アンセルムロッホの<アンドイッツアソング>。エドサンダースの詩集<ピースアイ>,デロップスの<ドラッグズアンドザマインド>、ガンジーの<非暴力主義>だったという。そしてビート詩人や作家に多大な影響を与えた鈴木大哲の<禅>の大本山の<永平寺への道>(the way of eiheiji)の二枚組のレコードも、そのインディカブックショップにはあったのです。