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エリザベス洋装店のブログ

アイリッシュの街、リヴァプール 2

もちろん移民の中でも群を抜いて多かったのはアイルランドからやってきた人たちだった。英国では<リヴァプール出身>といえば即<アイルランド人>とみなされるそうだが、リヴァプールはそれほどアイルランドからの末裔が多い地域なのである。エルビスコステロやジョーイモーランド(バッドフィンガー)など、リヴァプール出身の何人かのミュージシャンに共通しているのは”アイルランド人の血”である。それが二分の一、四分の一であっても彼らはケルト民族の末裔であることを誇りに思っているようだし、そこにこそ彼らのアイデンティティがあるようにも思われる。近代の歴史を振り返ると英国やアメリカで成功したケルト人たちの姿が数多く浮かび上がってくる。電話を発明したことで知られる発明家アレキサンダーグラハムベルはスコットランド出身だし、同じくスコットランド生まれのアンドリューカーネギーは1873年から1901年にかけてアメリカ合衆国鋼鉄業界の最重要人物として君臨した。カーネギーはその莫大な富を、多くの文化機関や科学機関の発展のために使った偉人としても知られている。石油産業で得た資金を産業改革のために用い、1890年代に一日八時間労働と最低賃金制度を導入したサミュエルミルトンジョーンズや合衆国のショウビジネスに大きく貢献し、世界的な娯楽産業にまで手を伸ばしたハリーローダー、そして無産階級から政治的権力を手に入れたことで、アイリッシュアメリカンのシンボルとなったJ、M、カーリーや第35代合衆国大統領となったジョン、F、ケネディもアイルランドからの移民の子孫である。また、”英国音楽の父”と呼ばれる作曲家ヘンリーパーセルもアイルランド系だし、文学の世界では、<ガリヴァー旅行記>を書いたアイルランドはダブリン出身のジョナサンスイフト、<嵐が丘>のエミリーブロンテ、<ドリアングレイの肖像>などでしられるオスカーワイルド、<ユリシーズ>や<フィネガンズウェイク>を残した亡命作家ジェイムズジョイス、フランスに移住して英語とフランス語の両方で、多彩な創作活動を展開したノーベル賞作家サミュエルベケット、ウェールズ語は話せなかったが、心情は実にウェールズ人らしかったと言われる詩人ディラントマスなどが世界的に知られるケルト人である。

アイリッシュの街、リバプール 1

ご存知のように、ビートルズの4人の故郷はリバプールである。英国(正式には、グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国)の首都ロンドンから北西へ320キロ、18世紀には南アフリカからアメリカ大陸へと黒人を運ぶ奴隷貿易で繁栄、19世紀にはアメリカ南部や西インド諸島でとれた綿花の輸入へと、それをランカシャー一帯の工場で製品化したものの輸出が代表的な産業となり、大きく発展した港町だ。1814年にはリヴァプール~ニューヨーク間の定期便も就航され、1830年には綿をマンチェスターに運ぶのを主な目的とした世界初の鉄道が完成する。船が最もポピュラーな海外への交通手段だった時代、英国への”入り口”だったリヴァプールは、同時に”出口”としても重要な機能を果たしていた。英国本土はもちろん、アイルランドからアメリカに渡る移民も、リヴァプールを経由してニューヨーク向かう船に乗ったからだ。1850年代から1920年代にかけて、リヴァプール港へ旅立っていった移民は400万人とも500万人とも言われているが、その多くは、アイルランド、スコットランド、ウェールズなどを祖国とするケルト人だった。農業国としては貧しく、近代的な産業の発展もイングランドより、はるかに遅れていたそれらの国【州】の人々は職を求めてリヴァプールにやってきたり、一家で国を捨てて新天地アメリカに渡っていったりした。移民はアイルランドやスコットランドの貧しい人たちばかりではなく、ヨーロッパ全土や中国からもやってきたし、あっさりと湾口関係や綿産業に就職してしまう人もいたから、リヴァプールの人口は飛躍的に増加することになる。19世紀後半ともなれば、街には雑多な民族があふれ、一般的な英国のイメージとは大きく異なる、独特の雰囲気を漂わせる街になっていた。