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エリザベス洋装店のブログ

ジョンレノンのケルトルーツとラフカディオハーンのクレオール 1.

ジョンレノンのソロ第一作<ジョンの魂>は、彼のトラウマを吐露した痛切な<マザー>で幕を開ける。過去のあらゆるしがらみから解放された”個”を歌った<ゴッド>で人間宣言する姿も印象的だが、音楽的に最も興味深いのは<ワーキングクラスヒーロー>【労働者階級の英雄】における伝統的なばらっどスタイルである。ジョンが若いころからシンパシーを感じていた同時代のアイルランド人は、兄貴作家のブレンダンと弟でフォークシンガーのドミニクのビハン兄弟だったという。10代のころからIRAの一員としてアイルランド紛争に参加して投獄されたブレンダンは出獄後にその体験談をもとにした戯曲と小説で一躍人気作家となる。50年代終わりにニューヨークに渡った彼はアルコール中毒で早死にしている。フォークウェーイズにアルバムも残した弟のドミニクは62年の<リヴァプールルー>が最大のヒット曲。後にこの曲はスキャッフォールドがカヴァーして全英7位を記録するリヴァイバルヒット(74年、ポールがプロデュース)となった。ボブディランがアイルランドの伝承曲にオリジナルな歌詞をつけているのに自らのアイリッシュルーツを刺激されたジョンは、1965年からのダブリナーズなどを聞くようになり、アイルランド文化をより深く知るようになったらしい。68年に西アイルランドを訪れたジョンとヨーコはメイオウ郡クル湾にあるドリニッシュ島を購入した。ジョンは<ユダヤ人がエルサレムの一部を買ったようなものだ>とその意味を説明していたようだが、二人して再び訪れるチャンスはなく、ヨーコはジョンの死後(83年)、この島を売却している。ジョンのアイリッシュルーツが音楽的スタイルとなって表面化した例は、1971年暮れの<ハッピークリスマス>と、72年の<ザラックオブジアイリッシュ>【サムタイムインニューヨークシティ】に収録)ぐらいしかないが、、<ワーキングクラスヒーロー>以下それらすべて8分の6拍子の曲は(ユーヴガットトゥハイドユアラヴアウェイ)ころから実は一貫してアイリッシュ的な♪タンタタタン、タンタタタン♪というリズムなのである。<ハッピークリスマス>では4分の4拍子の三連ぷが、そのまま8分の6拍子になるというリズムチェンジを採用して、ばらっど【物語歌】からジグ(8分の6拍子のダンスチューン)への移行を成功させているし、それらの曲を歌うときにはストレートなロックナンバーには出てこない”こぶし”を聞かせている点にも注目していただきたい。ところが(レイン)や<トモローネヴァーノウズ>といった、ジョンレノンのジョンレノンたるサイケデリックナンバーには、このこぶしが登場していたのだ。彼はおそらく意図的に”黒人音楽のリズムのうねり”と”ケルト音楽のこぶし”を合体させていたのだろう。”ブルースの7度の不思議”を”ポップ”に滑り込ませたジョンは、自らのルーツに忠実な次のテーマを”サイケデリックロック”にぶつけたのだ。

ケルト民族 ④by和久井光司

アイルランドに生まれた人々が、アメリカに新天地を求め、大量の移民となって海を渡るのが日常的になったのは19世紀の半ばからだが、(それまでにもすでに約200万人のケルト人がアメリカに渡っていたが)。移民船のピークは1850年代から1920年代だった。そのもっともポピュラーなコースは南アイルランドのコーク、もしくはダブリンや、北のベルファストからマン島、リヴァプールを経て、ロンドンに近いサウザンプトンやイングランド南西部のプリマス、フランスのシェルブールなどによって大西洋を渡り、ニューヨークやニューオーリンズにたどり着くというものだった。1911年5月に完成したあのタイタニック号は、リヴァプールで、1845年に創立された航海運輸会社<ホワイトスター社>が、ベルファストの造船会社<ハーランドアンドウルフ社>に造らせた(オリンピック号に続く)2艘目の豪華客船で、母港はリヴァプールである。リヴァプールからニューヨークへの船旅は約3週間。船底といっていい三等客室にはアイルランドからの移民を満タンにしていた。大ヒットした映画、(タイタニック)でも、アイルランドからの移民たちの【イングランドの上流階級とは明らかに違う】超文味嗜好を象徴するようにバグパイプやフィドルやティンホイスルといった楽器で伝承音楽が演奏されるシーンが挿入されている。移民とともに海を渡ったアイルランドの音階やリズムは、イングランドや北アイルランドの音楽に大きな影響を与えていくわけだ。英国のbbcは1991年にアイリッシュミュージックのドキュメンタリー<ブリンギングイットアールバックホーム>を制作して、cdや書籍も発売。ウォルトディズニープロダクションは、1998年に、アイルランドからアメリカに渡った移民が、新天地でどう生きてきたかをテーマ視した5時間45分にも及ぶドキュメンタリー<ジ、アイリッシュ、イン、アメリカ、ロング、ジャーニー、ホーム>を制作した。そういった”素材”がそろったことで、音楽ファンの間で、にわかに高まってきていた伝統的なケルト音楽の見直しが一般層にまで広がり、1990年代半ば以降はわが国でもアイリッシュミュージックがかってないブームになっている。アイルランド移民の末裔が4,000万人にも及ぶといわれるアメリカ合衆国で、”アイリッシュルーツ”の再発見が促されはじめたのは1980ねんだいなかばごろから。1980年にダブリンから登場したロックバンド、u2の人気がアメリカで爆発し、世界的なグループになったのは1983年の事だが、アイルランドを南北に分ける長い宗教戦争や<血の日曜日事件>を題材にした彼らの歌は、アイルランドを故郷とする我執国国民に衝撃を与えた。u2は<time>誌の表紙を飾ったビートルズ以来のロックバンドとなり、社会的にも大きな影響力を持つようになる。1988年には、アイルランド移民が持ち込んだケルト音楽と、アフリカから来た奴隷がアメリカで作り上げた黒人音楽が合体して、ロックが生まれた>という事実を検証するために、u2自身がアメリカを旅して歩く映画<ラットルアンドハム>【魂の叫び】>と、そのサウンドトラック盤を完成して世界的なヒット作にした。u2はビートルズはグループで果たせなかった”宿題”を、見事に形にしたのである。その宿題とは何か?

ケルト民族 ③by 和久井光司

こういった事実を挙げていくと、われわれ日本人にはナショナリズムなんてないんじゃないかとさえ思えてしまうが、ケルト圏の中で最も強固なナショナリズムやアイデンティティを表出しているのがアイルランドであることは間違いない。ケルト民族固有の文化がどこよりもはっきりと残ったこの島国こそが”ビートルズの故郷”であるという点は、彼らの音楽や思想また人間性を解く、”最大の鍵”だろう。1921年の一大蜂起の後、南アイルランド(エール共和国)は、独立を果たした。カトリックが圧倒的に優勢な共和国は自由化を推し進めていたが、プロテスタントが多いアルスター地方を擁する北アイルランドでは宗教的な対立がむしろ激しくなった。人口の32パーセントを占める北のカトリック教徒は、プロテスタントの支配的な政策に苦しめられ、移住を余儀なくされてきた。1960年代にはアメリカのそれに呼応するような公民権運動がおこったが、1968年8月、デリーのカトリック地区が警察の管理下に置かれることを拒んだのに端を発して抗争は再び激化し、新たな暴力の時代が始まった。IRAによる爆弾テロが、不定期で行われる花火大会のようでさえあるのが残念だ。しかし、鎖国時代のわが国や数百年までの東欧諸国、もしくは朝鮮を隔てたような”壁”はアイルランドにはなかった。凍てついた実りのない土地は、生まれてくる子供たちの全てには恵みを与えられないから、人々は出ていかざるを得ないという現実的な事情もあったが、ケルト人が漂白していく、根無し草的な生き方に疑問を持たない民族であることは歴史が証明している。