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エリザベス洋装店のブログ

家康の健康三ヵ条

徳川家康が世を去ったのは、元和2【1616】年4月17日のことだった。2016年は家康没後400年の節目を迎え、久能山や日光の東照宮をはじめ、家康ゆかりの各地で盛大な記念式典が模様された。ヨーロッパでは、家康と同じ年に、シェイクスピアとセルバンテス(ドンキホーテの作家)が死去している。数え年で言うと、シェイクスピアは53歳、セルバンテスは70歳で死んだが、家康は75歳まで生きた。当時としてはかなりの長命だ。しかも死の直前までバリバリ仕事をしていた。大坂夏の陣に出陣したのは74歳の時だ。そして、死後のことを秀忠や側近たちにすべてを指示し、安心してあの世へ旅立った。<理想的な死に方>といえるだろう。関ヶ原の戦いから大坂の陣までの15年間、家康の胸中にあったのは、<自分の目の黒いうちに天下泰平の総仕上げをする>という強い思いだった。そのために健康に気を使っていたことは、よく知られている。家康の健康長寿の秘訣は、大きく分けて三つある。第一は粗食。天下を取った後も、麦飯と味噌を中心にした食生活を貫いた。大には身体の鍛錬。今川氏の人質だった少年時代から最晩年まで鷹狩に親しみ、馬で野山を駆け回った。剣術はもちろんのこと、水泳の達人でもあった。第三は、医薬の豊富な知識だ。<和剤局方>や<本草綱目>などの医学書を愛読し、施薬院宗伯、吉田意安らの名医にたびたび医薬に関する質問をした。それだけではなく、様々な生薬を常備し、日々の体調に応じて自ら調合、服用していた。どんな薬を作っていたのか、一部は分かっている。手がかりは遺品だ。正宗の名刀から白麻の褌(ふんどし)に至るまで、家康の遺品は膨大な数に上る。その中に家康が薬草を刻むのに用いたという小刀や、青磁の乳鉢と乳棒、薬用の茶わん、薬ツボなども含まれている。その水戸徳川家に伝わる薬ツボの中に、家康自製とされるペースト状の薬が残っていたのだ。おそらく丸薬にして用いていたのだろう。薬ツボのふたに貼られていた紙には<烏犀圓>の文字がある。五十種類以上の生薬を配合すると記されている。そしてなんと婦人病薬としても用いられたものだという。

オノ・ヨーコ

ジョンレノンの<イマジン>がヨーコの”コンセプト・アート”の影響下にあることはもはや有名だ。<想う>という行為の中に芸術的な営みがあることを発見したヨーコは、まず詩の形態でそれを表現した。それから彼女の芸術は、パフォーマンス(肉体表現)造形、映画と発展し、ロンドンで開いた個展の際にジョンと出会ったわけだ。小野洋子は1933年2月18日に東京で生まれた。父の小野英輔は東京銀行のエリート、母の磯子は安田家の令嬢で、洋子は何不自由なく育つ。学習院では現天皇と机を並べた彼女は、1953年、20歳の時にニューヨークのサラ・ローレンス大学に留学した。しかし彼女には伝統的な音楽理論や歌唱法を教える学校が面白くなく、資料室にこもってばかりいたという。教授の一人にマンハッタンの前衛音楽家たちのサークルを紹介された洋子は、彼らと行動を共にするようになり、大学を3年で退学。56年にはジュリアード音楽院で洋子と同じような思いをしていた作曲家、一柳慧(さとし)と結婚した。ジョンケージの実験音楽作曲教室に参加したり、ラモンテヤングと交流を持ったりした彼女は、自分のロフトで毎週実験的なパフォーマンスを繰り広げて名を挙げ、ジョージマチュナスが主宰する前衛芸術集団<フルクサス>の一員となる。1962年にはジョンケージとデヴィッドチューダーの来日公演に同行して帰国し、自身もパフォーマンスを行った。1964年、50年代からコンセプト・アートを詩集の形にまとめた<グレープフルーツ>を日本で自費出版したが、草月ホールや京都の南禅寺で行われたパフォーマンスは、当時全く理解されなかったそうだ。63年に一柳と離婚した洋子は、その後映画作家のトニーコックスと再婚し、京子という娘を生んだ。1966年9月にロンドンで行われた<芸術の破壊>というシンポジウムに洋子が招かれたため、一家は英国に移住し、11月にジョンと出会ったのである。ジョンは最初、洋子の芸術活動を支援するスポンサーにすぎなかったが、1968年5月、のちに<トゥーヴァージンズ>として発表される録音を行った際に二人は結ばれたのだ。ジョンと出会ったことで小野洋子はヨーコオノとなり、世界的に知られるようになったわけだが、ジョンの作品に影響を与えたのはヨーコの方だった。初期の実験作品や<ラヴ・ピースイントロント1969>と初ソロ作<ヨーコオノ・プラスティックオノバンド(ヨーコの心)>【70年12月]での強烈なスクリーミング(叫び)で、ビートルズファンから嫌われてしまった彼女だが、<フライ>【1971年9月】でポップな方向を向き始め、続く傑作<アポロクシメタリーインフィニットユニヴァース(無限大宇宙)>【1973年1月】でポップソングライターとしての地位を確立した。しかし1974年にショーンが生まれ、ジョンが主夫宣言したのに伴って、ヨーコは一家のビジネス面を取り仕切るようになる。ジョンが音楽界から引退している間に、ヨーコはレノン家の資産を3倍に増やし、現在はポール、リンゴらとアップルを管理している。1980年にジョンが音楽活動を再開した際に共演者に抜擢されたヨーコは、ジョンの遺作となった<ダブルファンタジー>【1980年11月】にも素晴らしいナンバーばかりを発表した。しかし、ジョンとの共演作以外の彼女の音楽作品はいまだに大衆からあまり支持されないようである。