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エリザベス洋装店のブログ

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博1.

内藤伊右衛門家古文書に越知山山上千躰地蔵尊寄進姓名録というのがあり、江戸末期、鷲田寛隆の次男の駒屋清慎(駒屋に養子に入った)が発起人となり、五百人近くが、地蔵尊を寄進している。その寄進した人たちが、そのリストに載っているのだが、一人一人の寄進した思いを想像するのに、この時代背景が重要な意味を帯びてくる。まず、国学者の本居宣長と深い血脈のある松平春嶽公が安政の大獄で幽閉されたが、この千躰地蔵と直接深くかかわってくる。まず、地蔵寄進番号236~242の越前藩某(なにがし)とは、あくまでも憶測だが、松平春嶽の秘書であった中根雪江だと思う。橋本佐内が逮捕された時、中根雪江は直属の上司であり、今日の継嗣運動の張本人とされており、、ペリーの黒船来航の時も、日本中が彼のもとに相談に来ていた。福井藩の藩主であった松平春嶽公は、のちに日本の総理大臣にあたる役職に就き、江戸時代の末の乱れた時代に、日本の政治の正しい道を説いて、幕府と皇室が対抗するのではなく、仲よく力を合わせて、諸外国に対抗して、立派なグローバルな政治をするために、一橋慶喜(よしのぶ)という人を幕府の将軍に奨めて、日本の政治を皇室の天皇にお返しさせた本当に偉い人なのです。

越知山 泰澄の道 千躰地蔵 by 上田俊博2.

三岡八郎(由利公正)が地蔵尊を寄進したのはまさにその福井藩の借金の返済中なのである。この成功で彼の名は日本中に轟き、坂本竜馬が彼に謝金を申込みに二度、福井を訪れている。その後<五箇条のご誓文>を起草し、初代大蔵大臣にあり、初代東京都知事となり、銀座の街を造ったことで有名になった。柴田勝家をはじめ、また福井藩主たちの越知山に対する信心は厚く、各菩提寺の西光寺、隆松寺、大谷寺、安養寺、光厳寺、法泉寺、福寿寺、大正寺といった寺も寄進している。千躰地蔵の発起人である、福井の薬問屋、駒屋清慎(きよすみ)と父,鷲田寛裕(ひろたか)は国学者、田中大秀の門弟であり、橘曙覧も学友であった。由利公正が曙覧の弟子だったことを考えると寄進者の中に、橘とあるのは曙覧の可能性が見えてきた。まさしく神の恵みの結縁。千躰地蔵の開眼供養の翌年、曙覧の詠んだ歌に、<おわしますかたじけなさを何事もしりてはいとど涙こぼるる>とある。西行法師の<何事のおましますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる>いずれも伊勢での歌だが、この越知山にも、何か不思議な目に見えない力を感じる。江戸時代末期の福井は越知山とともにあったのだった。

越知山 泰澄の道 千躰地蔵 by 上田俊博1.

万延元年(1860)庚申12月造られ、福井をはじめ、京都、江戸神田、大阪、小松、金沢からも寄進がある。天変地異、病患、商売繁盛を祈願するとともに、祈願成就のお参りの為に、年号と氏名を刻んで奉納された千躰のお地蔵さんが、越知山の参道にある。県内の寄進した人たちを調べていくと、福井とかかわりのある、幕末の混沌とした時代が見えてくる。森蘭丸を先祖にもつ三国湊の三国家は、継体天皇の母方の実家であり、越前藩、加賀藩、大江戸を一手に支えていた廻船問屋である。三男の遊民(ゆうみん)は安政の大獄で獄中に入れられながらも新政府の為に活躍した人。ほかに三国の室弥(内田家)は朝倉義景に仕えた武士、内田十兵衛を先祖に持ち、三国湊で麹業と廻船業を営む商人で、福井を代表する豪商の一つ。天保の飢饉では大活躍。慶松家は金山の採掘、金融業(大名貸し)。楠屋(都鄙)は造り酒屋で橘曙覧が酒の代金の代わりに和歌を一句読んで帰ったという。京都の鳩居堂は、お香や書道道具の老舗。そして福井の三岡八郎も寄進者の一人に名を連ねている。幕末の福井藩は石高32万石の約3倍相当の90万両の負債を持っていた。それを3年で返済したのは彼なのである。由利公正と改名し九十九橋のたもとの駒屋の一角を借り、福井物産所とし、福井藩内で生産した生糸、茶、塩,しょうゆなどを長崎の出島でオランダ人に売り、また藩札をも発行した。