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エリザベス洋装店のブログ

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博4.

1859年2月15日、安政の大獄で春嶽幽閉。1859年9月14日、安政の大獄でとらえられた小浜藩の梅田雪浜が獄死。同じ10月7日、橋本佐内が死刑。同10月17日江戸城本丸が炎上。同じ10月27日吉田松陰が死刑。まさしく安政の大獄と同じ時期、1859年に駒屋氏によってこの千躰地蔵は発願されている。1960年7月に越知山山頂に千躰地蔵の御堂造立。同年9月千躰皆成就。同年井伊大老が桜田門外で水戸浪士に暗殺され、同年9月4日無事、春嶽らは謹慎が解かれ、幕政参与となる。次に寄進した人たちを挙げてみよう。960番福井牧ノ太は馬来田善包のことで、彼は橘曙覧が20歳のころ、芸者を連れて家出した時に彼を諌しめ、正しい方向へ、彼をなびかせた足羽神社の宮司。彼の知り合いの先生が田中大秀であり、足羽神社の境内に継体天皇の石碑を立てたのも田中大秀であり、彼の門下生である人たちであった。曙覧が中心だった。単に曙覧の実家である正玄家が足羽神社の氏子という関係だけでなく、久しい以前から両家には特別の交わりがあったものと考えられる。文政13【1830】年は継体天皇崩御より1300年に相当するので当時の天皇から<大宮地之霊>の御宸筆を賜り馬来田氏が社殿を新築して大祭を行い、その時境内にその由来を記した碑を建てるため、曙覧の実家である石場町の富商である正玄家が中心的な役割を果たしていた。

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博3.

橘曙覧にとってはよだれが出るくらい、垂涎の家系のご子息が福井の藩主になるということで、二人は生涯を通じての交友関係を持つ。そこに親の代から、藩主に仕えて、春嶽が16歳で福井にやってきたときには倍の32歳だった中根雪江は国学者の平田篤胤の門下生であった。松平春嶽と深い縁のある本居宣長の三大弟子である平田篤胤、田中大秀、本居春庭とみんなが福井藩の人たちにかかわってくることになる。春庭の弟子、八木静修(しずさね)(別名、橘尚平)は橘曙覧などがその説きに従い、大きな影響を受ける。本居宣長の弟子田中大秀に、曙覧らは入門し、福井から52人、彼の生徒となる。馬来田善包、鷲田寛隆、彼の息子の駒屋善右衛門、三崎玉雲、富田礼彦、山口彦三郎、田中大秀の生徒たちがなんとこの千躰地蔵に寄進をしているのだ。これは国学者の本居宣長と、血脈で深いつながりのあった松平春嶽公とやはり深く関係しているのではないだろうか。

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博2.

その後、春嶽公が安政の大獄で幽閉され、雪江と佐内は切腹しようと決意までしたのです。西郷隆盛が自害しようとした時、彼の懐には、橋本佐内の手紙が忍ばせてあったという説話も残っている。春嶽公に止められ、雪江は短歌の先生である曙覧に頼んで謹慎中のお殿様の為に、万葉集から勇壮な歌を選んでくれとお願いします。江戸時代の財政を立て直した八代将軍吉宗の次男である田安宗武は、春嶽公ののひいおじいちゃんに当たり、三男は一橋家へ養子に入る。田安宗武は本居宣長の先生である賀茂真淵とともに国学という日本の純粋の学問を始めた人である。本居宣長曰く<儒教は忠や孝といった形式的な道徳で人間を縛るが、私たちは生まれながらに持っているまっすぐな心の命ずるままに自然に生きるべきだ。>そして本来の神道の心を身につけよと説いた。彼の教えは橘曙覧が強く影響を受け、平田篤胤は当時の庶民の日常生活に溶け込んでいた仏教を日本古来の好き心に合わないものとみなし、仏教批判を盛んに行い、尊皇攘夷運動(日本は万国においてすぐれた国であり、天皇を最高の存在とする考え)を持ってエキセントリックに神道を推し進めていた。