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エリザベス洋装店のブログ

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博6.

247と248の福井、三岡は後世、由利公正と改名し、福井藩のため日本国の為大活躍をした。橘曙覧の弟子であり、千躰地蔵発起人の駒屋の右腕というべき重要な人物。公正の弟は母の実家に養子に入り、大越外三郎といい、さらに安保の福山家(479)の養子になる。そして上田俊博の母の妹(おばさん)がその福山家に嫁いでいる。551~558の三好家は由利公正のもとで長崎出島で大活躍。坂本竜馬のNHK大河ドラマにもでてきたが、福井藩と深いかかわりがあった子曽根乾堂が不正を働いたために福井藩は独自に福井物産店をこの三好家にまかせ、片屋の醤油はもちろん、福井藩の絹を売り出したのが大成功をおさめ、幕末の福井藩はとんでもないいい方向へ動く。この片屋の醤油屋とは、上田俊博の父の母親の実家。吉川家の屋号であり、江戸時代末期、三好家から譲り受けたと聞く。(書家の吉川寿一)当時のヨーロッパの蚕はウイルスが蔓延して死滅し、映画<SILK>では、やはり幕末のころロシアを通って、日本のsilkをいかにヨーロッパの人たちはのどから手が出るほどほしかったのかがよくわかる。ちなみに中国の清はアヘン戦争で上海は閉鎖されていた状況だった。だから黒船にしろ、(越知山山頂から六所山(日本海が一望できる場所に、諸外国の意のままにならないように、イギリス、ロシア、オランダの軍艦が来ないか、見張っていたくらい)緊張感があふれていた時期だったのだ。

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博5.

466~475の10体は山口彦三郎。米町に住む長者で、田中大秀の福井滞在中は主にここを宿舎と定め歓待を受けた。あるじ従彦という名で大秀の日記に出てくる。791~793の三体は慶松家。ここの先祖にすごい人がいた。東郷の一乗谷南のあたりの山林一画を藩主より賜り、21歳のころ別荘を作る。慶松山と号し、一乗院法王をはじめ多くの歌人が集まった。40歳に家を子に譲り、日本全国、熊野、長崎、松島、天橋立、伊勢に参宮し、江戸にも三回。みな紀行あり。70歳にて富士山に登り、山頂で釜を持たせて茶を点て、行者に飲ませたり、白山や越知山に慶松堂をたてて、参詣者のたすけとなしたり。今庄の夜叉が池に石灯籠を立てたり、先代が柴田勝家と志津ヶ丘へ猿狩りをしに行った話が伝わっている。伊勢は20回、白山は7回、今藤慶松という古くからの薬局で、太郎三郎商店のころは海外貿易に従事しており、室町幕府十代将軍足利義植(よしたね)の子、慶松丸が始祖にあたる。世に慶松が有名になったのは友梅からで、心高き男にて、常に京都においても堂々と上方に立ち入り和歌を詠んだ人であった。1769年福井の大火で57カ町が焼け出されたとき、四代藩主光道公は当時の豪商慶松家に頼み、我が国紙幣の元祖といわれる藩札を発行した。御朱印所持の特別商人である。