SHOP BLOGアソビねっブログ

エリザベス洋装店のブログ

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博9.

243と244は安養寺で、ここの檀家総代は駒屋家。柴田勝家の時代、駒屋家は、九十九橋を立てるときの人身供養で、駒屋の娘が人柱になっており、その時の礎石がここのお寺に寄進されている。もともとこのお寺は武生市安養寺にあり、朝倉敏景が黒丸より一乗谷に城を構えたころ、一乗谷に移転。朝倉家の菩提寺でもあったが、三崎玉雲の先祖の菩提寺にもなっていた。真盛上人も当寺に縁がある。天正元年(1573)8月20日朝倉滅亡の時、一乗谷が平泉寺衆徒の焼打ちに会い、当山も焼け落ちた。その後、柴田勝家が北の庄に城を築き、城南の護りに天正3年【1575年】現在地に寺を移した。柴田氏が滅亡後、秀康公が藩主にあるに及び、結城家は曹洞宗であったが、徳川家は浄土宗であったため、当山に重きを置かれ、特にその母(家康公の側室、おまんの方)長松院は当山に多くの寄進をされた旨の古文書がある。度重なる火災で当山にあった多くの寺宝は消失した。しかしおまんの方の持念仏<大種霊宝>は焼け残っている。樹齢500年近い大銀杏の木の坂の上に橘曙覧の家があり、この銀杏の故に<黄金舎>と名付けられていた。357の清水町の光厳寺は、759年、泰澄により創建されている。

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博8.

334は今庄の大黒屋。497は京都の大黒屋。九十九橋の大黒屋はリストには載っていないが、久保町九十九橋南詰の老舗ろうそく、びんつけ業で、駒屋の対岸にあった。そこの片山平三郎の次女で頼山陽と交遊し、京都、江戸と文人たちとの交流のあった書道家であり、文人がいた。名を片山お蘭といい、殊にその書は筆勢強く、とても女性のものとは思えないほどであったという。お蘭の書いた九十九橋石橋の辻の<越知山大権言>の石標や大黒屋名物の槌型朱塗りの金看板<びんつけ>の文字は大評判であった。姉も妹も詩や画に秀でて大黒屋の才女三姉妹といわれていた。蓮如上人の御絵輿が九十九橋をお渡りの際折からの洪水にて木橋の部分が壊れて流されようとしたのを大黒屋からお助けしたので、以来休憩所になった。

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博7.

559と560は平吹屋という造り酒屋で、曙覧とは2歳年上の幼馴染の青木庄三郎。477の堀村の某(なにがし)は堀名銀山の富田礼彦だと想像している。曙覧が33歳の時、4歳の娘が痘瘡により死亡。それがきっかけで、ひとしお古学と古体の歌に心が傾き、同年8月高山の田中大秀に入門する。その時に出会った唯一無比の友人になったのが国の役人であるこの富田礼彦。1859年に勝山の堀名銀山取締役となり、約8か月間曙覧と交友を深める。その時に彼が記した<越路の日記>【1859年10月3日~1860年5月3日高山に帰住するまでの日記>が素晴らしく、福井の豪雪の模様が事細かく出てきて素晴らしい。そしてまさしくこの千躰地蔵の時期とぴったり重なる。301~317の17体は三崎玉雲。曙覧の門人であり、足羽下町の医師でもある。1844年、曙覧、久世、山口氏らとともに高山の田中大秀を訪れて門下生となる。笠原氏らとともに万葉集の勉強会に出たり、国学を勉強していた。大谷寺宝物の中に彼が寄進した6幅の祈願本尊金泥、金地織極彩色の画、その他大般涅槃経600巻入り式部内壱部がある。(泰澄大師讃仰会誌、白鳳より)