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エリザベス洋装店のブログ

どうにもとまらないby山本リンダ(1972)

1972(昭和47)年5月15日、戦後27年間、アメリカ統治下にあった沖縄の施政権が、日本に返還された。間もなく田中角栄が宰相となる。田中は高速道路や新幹線で日本をネットワーク化する<日本列島改造論>を発表した。電化事業も火力から原子力への大幅転換を提言。その政策網領を記した<日本列島改造論>はベストセラーとなった。このころ、巷で流行したのが、山本リンダが妖艶なスタイルで踊り歌う<どうにもとならない>だった。60年代<困っちゃうナ>で一躍ティーンのアイドルとなった山本リンダを、セクシーな大人の歌手にイメージさせるべく、作詞家の阿久悠と作曲家の都倉俊一が仕掛け、大ヒットした。ピンクレディーにつながる大胆なボディーアクションの振り付けで、先駆けとなった。角栄の<日本列島改造論>により、地方の地価が高騰して、株価も暴騰した。前年のドルショックから一転、新聞は地価や株価について<どうにも止まらない>と書き立てた。これ以降、阿久、都倉コンビが次々と生み出す、山本リンダの<くるわせたいの><狙い撃ち><燃えつきそう><ぎらぎら燃えて>などの曲名が、株価の動向を示すフレーズとして、新聞の見出しを飾った。石油ショックの時には<燃えつきそう>がヒットして、阿久は<これはもうブラックジョークである>と語っている。このころ小学生だったさくらももこ原作のアニメ<ちびまる子ちゃん>を見ていると山本リンダブームがいかにすごかったかわかる。この歌を日本中の小学生の女の子が歌い、振り付けをまねた。歌謡曲が社会現象になる、その先駆けとなった曲だった。漠然と日本人の奥底にある心情を一言で言葉で表し歌に託す。これは非常に心をわしづかみにするインパクトのある手法だ。

ウイチタラインマンbyグレンキャンベル(1968)

果てまで続くアメリカのハイウェイが熱で、陽炎のように溶けだし、時折吹き抜けるそよ風さえも実感させ、リアルな幻想の中に泳ぎで祟った3分間のドーナッツ版でそんな体験ができるレコードだ。ジムウエッブが、故郷のオクラホマ南部の道で作業をする電話線工事夫を見て、その孤独に思いをはせて作った曲。やばいとしか言いようのない幻想的なストリングスには電話信号を思わせる音まで入っている。詞は危険と裏腹な男のガテン仕事の姿に、遠く合うことができない女性の思いが重ねられ、まさに男のロマン。テンポはbpm=86とバラードだが、キャロルケイ(有名な女性セッションベーシスト)以下のれっきんクルー(伝説のセッションミュージシャン集団、グレンキャンベルもそのうちの一人)がしっかりとグルーブをたたき出しており、ロック少年もだらけない。影を含んでなお、おおらかなグレンのヴォーカルがうますぎる。高校1年生だった僕も眠れない暑い夜、遠くから聞こえるニッポン放送の深夜番組<オールナイトニッポン>で、買う汁図、ママすあんどっぱっパス、フィフスディメンション、ナンシーシナトラのポップスの中でもジムウエッブの描いたこの局に非常に心地よいアメリカのハゼの波動感じていた。聞くたびに色は薄れていない。まるで当時に連れ戻されるようなタイムマシーンのような感じだ。

宗教を超えた地球のお祭り2byべネシアスタンリースミス

キリスト教を国教としたローマ帝国は、ヨーロッパ各国をキリスト教化していきます。しかし、強引にキリスト教徒にしたわけではなく、その国や民族の風習や文化に融合させてキリスト教を広めていきました。キリスト教会は、人々がクリスマスを受け入れやすくなるようにコールやサトゥルナリアと同じ時期に定めたようです。そして、西暦325年に行われた第一回ニカイア公会議で、キリストの誕生日が12月25日に定められたのです。クリスマスツリーの発祥の地はドイツというのが一般的なようです。日本でクリスマスツリーといえばモミの木をさしますが、今の時代、ヨーロッパではモミの木が減っているので、もみの木に似たヨーロッパトウヒがクリスマスツリーに多く使われているようです。ドイツのある山岳地方では、もみの木には小人が住んでおり、人々に幸せを運んでくれると信じられていたそうです。クリスマスツリーがモミの木になったのはそれと関係があるのかもしれません。ライン川東部の森林地帯では、コールの祭りになると、もみの木などの常緑針葉樹に飾りをつける行事がありました。その地方に暮らしているゲルマン人たちは、森に生えているモミの木を選び、その枝に木彫りの動物をぶら下げて飾りました。木彫りは動物神の象徴となり、もみの木は<命の木>と呼ばれ、森の生命のシンボルとされました。かれらはそのモミの木の周りで歌い踊り、そして春の訪れを祈りました。それから何世紀も後にキリスト教が布教されると、コールはクリスマスへと姿を変えていきました。そしてモミの木の上には、大きな星の飾りが付けられるようになりました。その星はキリスト生誕時に現れたベツレヘムの星を表しているということです。1605年、ドイツのストラスブルグの作家がクリスマスツリーの飾り方を匿名で発表しましたそれには家の中でのモミの木の置き方やモミの木にリンゴ、お菓子、金箔で作った飾り色紙で作ったバラを飾る方法などが述べられています。クリスマスにクリスマスツリーを飾る習慣はまずドイツで始まりました。そしてヨーロッパよりも先に、ドイツ移民によってアメリカで広がったということです。イギリスのウインザー城で毎年行われるロイヤルツリーの始まりもドイツからだといえそうです。1841年、ドイツのアルバート公は花嫁となったイギリスのヴィクトリア女王にローソクの明かりで飾られた巨大なクリスマスツリーをプレゼントしました。この王家のクリスマスは欧米各地に広がっていきました。キリストの祖先やユダヤの祖先をたどればアブラハムだと聖書に書かれています。マホメットの祖先もアブラハムだとコーランに記されています。つまりキリスト教、ユダヤ教、イスラム教のルーツは同じところからきています。偉大な精神的指導者は、心理と愛と平和を私たちに伝えてくれました。しかし、のちに教えを引き継いだ人々は、その教えを宗教という形に作り上げていきました。教えが宗教になってしまうことがキリストの望みであったかどうかは疑問です。クリスマスの起源を調べていくうちにクリスマスはキリスト教徒という宗教を超えて、地球上に住む人類全体のお祭りではないかと私は思うようになりました。

宗教を超えた地球のお祭り1byべネシアスタンリースミス

キリストの誕生日は西暦1年の12月25日だと思われている方が多いと思います。ところが、キリストの誕生日がいつなのか聖書には書かれていません。実際のところ、西暦1年12月25日ではないという説が多いようです。西暦1年がキリストの生まれた年と決められたのは、ずっと後の西暦325年のキリスト教会の会議(第一回ニカイア公会議)でのことです。キリストが生まれた年は紀元前8年ごろから西暦1年ごろまでの間ではないかという説があるようです。また、12月ではなく4月から9月までの間ではないかとも言われています。天使により救い主の降臨を知らされた羊飼いが、キリストの誕生のお祝いに小屋に来ましたが、すぐに夜中のヒツジの見張りに戻っていったと聖書に帰されています。当時のベツレヘムでは4月から9月まで羊を放牧し、冬の間は羊を小屋に入れていたということです。古代ローマでは農耕の神サトゥルヌスを崇める(サトゥルナリア)というお祭りが12月17日から24日までの一週間、もようされていました。冬至の日まで弱くなり続ける太陽をサトゥルヌスが復活させてくれることを祝うお祭りです。その頃のローマ帝国では太陽信仰のミトラス教が多くの人々に受け入れられていました。サトゥルナリアの翌日の12月25日は太陽がよみがえる日とされ、ミトラス教では最も重要な祭日とされていました。人々は家の出入り口やテラスをローズマリーやゲッケイジュなど、永遠の命の象徴とされる常緑樹の葉で飾りました。このようなハーブは邪悪なものから家を守る魔除けになると信じられてきました。人々はローソクや小さな人形を贈り物として交換し、また富める者は貧しい隣人たちにお金や衣類を施す習慣もあったようです。1月1日を過ぎると<カレンズ>という古代ローマの新年のお祭りが始まります。この時期にも友人、親せき、子供たち、召使いの間でプレゼントの交換が行われました。太陽の象徴としてランプを送ったり、甘く平和な一年が過ごせるようにお菓子やはちみつが贈られたり、また、さらなる繁栄と金運を祈って、金や銀を送ることもありました。プレゼント交換の習慣はその後も受け継がれ、今ではクリスマスに欠かせない行事となっています。一方ヨーロッパでは北ヨーロッパを中心に<ユール>と呼ばれる冬至の祭りが12月6日から1月6日まで模様されていました。農耕や狩猟の収穫への感謝と翌年の豊穣祈願の祭りです。ローマ帝国はヨーロッパ全土に進出していく過程で、ヨーロッパ先住住民を兵士にしていきました。兵士になった先住民の多くはゲルマン人だったので、ゲルマン人の生活や風習などが、ローマ帝国へも影響を及ぼしたようです。

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?4.

一方で、仏教もまた日本の風土に適するように形を変えていく柔軟さがありました。在来の神々は、病気平癒や一族の安泰といった現世利益的な願いをつかさどる存在でした。仏教はそうした役割を受け入れていったのです。6世紀末から7世紀の初めにかけての飛鳥時代には、豪族らが古墳に代わって寺院(氏寺)を建立しました。例えば、蘇我氏の氏寺である奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺)の塔の下には、勾玉(まがたま)や武具といった古墳の副葬品と同様の品々が埋蔵されていたことが確認されています。これは、祖先を祀り、一族の権勢を誇示するという古墳の役割を寺院が引き継いだことを示すものです。また大阪市の四天王寺は厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)が物部氏との戦いに祈り、勝利を得たので創建されたと伝えられています。このように仏教は当初、現世利益をかなえる呪術として受け入れられました。そして8世紀の奈良時代には、戦乱や疫病から朝廷を守る鎮護国家の役割を担うようになります。煩悩を滅して悟りを得るという仏教本来のあり方からすれば、それは<変質>と言えるでしょう。しかし、人々の望みにこたえる<しなやかさ>があったからこそ、仏教は日本の風土に根付き、在来の神々とも<共存>できたのです。