SHOP BLOGアソビねっブログ

エリザベス洋装店のブログ

竜馬の先祖は明智氏ではない。

坂崎紫らんの<汗血千里駒>を底本として、大正三年(1914)に千頭清臣(ちかみきよおみ)が<坂本竜馬>を著した。そこでは竜馬の坂本家の先祖が戦国時代の明智光秀の一族であったと述べている。坂本家にも<明智氏の末裔>との伝承があったようで、以来、この伝承がまことしやかに広く一般に浸透したのだが、これは坂本家の家紋がたまたま桔梗であったことから、近江、坂本を重ね合わせて、光秀の一族が土佐の国、長岡郡才谷村(現、高知県南国市才谷)に隠れ住んだとのロマンを創作したに過ぎない。明らかに後世の作為であった。戦国時代、土佐を支配していた長宗我部元親は、なるほど光秀とは親しかった。その長宗我部の家臣、豊永佐兵衛の妻が、六和国(現、奈良県)から落ち延びてきた人物の娘で、この女の妹が坂本家に嫁いだという挿話を以前何かで読んだことがあるが、これはいただけない。竜馬の<坂本家>における、初代ともいうべき人の名は太郎五郎といった。この人は<生国山城国>で戦乱を避けるべく<弘治永禄のころ>(1955~1570)に土佐へきたとある。明智光秀が長宗我部氏と関係を持ったのは天正年間(1573~1592)に入ってからであり、ちなみに光秀が主人、織田信長との”本能寺の変”は天正10年6月2日の出来事であった。太郎五郎はそれ以前、信長が尾張平定に躍起となっていたころに、すでに土佐にいた。しかも天正16年(1588)の才谷村の検知によれば、この太郎五郎は武士ではなく、一介の農民でしかなかった。当然、姓などはない。それにしても感心するのは、この人物、よくぞ土佐国までたどり着けたものだ。

古文書

書物とは、時空を超えて何かを伝える道具だ。とりわけ時を超える機能が重要で、そのおかげで人は死者の声を聴くことができ、さればこそ人類の文明は発展してきた。ありがたいことに、日本は大量の古典籍(ここでは明治維新以前に作られた書物をいう)を保有する古書大国だ。その大部分は江戸時代に作られたもので、二百年以上続いた平和で文化的な時代と高い識字率のおかげで、世界に誇るべき多彩な文化遺産の山が残された。それだけではない。古人の筆跡を珍重する日本人特有の美徳は膨大な肉筆資料をも保存させた。特に第三者の目を意識しない書簡は重要でより直接に古人の人間性に迫る重要な資料となっている。ところがせっかくの宝物が十分に活用されていない。最大の理由は書物や文書(もんじょ)の多くが崩し字で書かれていることだろうが、どのような資料が存在するのか簡単には情報を把握しにくい点も、その一因となっている。しかしてこの数年、古典籍の画像データベースが急速に進展し、国会図書館や国文学研究資料館をはじめとする図書館から、古書の精細な画像がネット上で公開されている。早稲田大学図書館が提供してくれる書簡資料群の画像は驚異的な豊かさだ。これらを契機として、古書や古文書の世界に直接親しむ人が増えれば、文化の質が変わる可能性がある。

ナギナタコウジュ

縄文人と近く、日本人のルーツともいわれるアイヌ民族が暮らした地は北海道などの寒冷地である。そこにはもちろん、南方系の常緑照葉樹である<茶ノ木>は育つはずもなく、酔って日常茶は緑茶ではなかった。アイヌ名<セタエント>は”犬が集まるところに薬草がある”のような意味でアイヌ民族の日常で最も飲まれたお茶であった。冬に入る直前の晩秋に、ピークを迎える最も遅い季節の和ハーブであり、保存しにくい夏を通過せず、極寒の季節が長い蝦夷地区の保存飲食材としても適していたのだろう。風邪をひいたときは似ている鍋の上に顔を置いて、布などをかぶり、蒸気を逃がさないようにして風邪を治すが、この治療法はアイヌ語で<ヤイスマウカラ>と呼ばれる。また胃腸の不調や二日酔いには薬食同源として、薬を一緒に煮込んだ粥を食すという。冬も近づき、植物が少なくなりかけた晩秋に、林縁や日当たりのよい道端などにその存在を示す。茎先んp片側だけに5mmほどの淡紫色の小花を多数つけ、中央部の幅が広く花の反対側はすべて苞となり、その姿が武器の<ナギナタの先端に似ているため、この名がついた。草丈は50センチほど、茎部分はシソ科特有の四角形で繊維がしっかりしているが、むしろ葉部分よりも香りが強い。芳香部分はナギナタケトンなどのケトン類やテルペン類で、はっかとしそを合わせたような香りを持つ。アイヌの人々のように単体の和ハーブティーもよいが、香りが強いために好き嫌いがある。しかし、ほかの和ハーブともミックスには抜群のベース役となる。本州以南ではあまり有用されていないが、日本一の薬草エリアである伊吹山麓では茶材や浴用剤として有用してきた。現地薬草名人によれば、野生のものは生命力が強いが、栽培すると雨や虫に弱く、育成が難しい種のひとつであるという。

坂本竜馬の始祖は竹内宿禰2.

その後、天皇は熊襲征伐に赴いたものの、俄かに崩じてしまった。仲哀帝の没後、皇后は先の神託を下した神々の名を問うたところ、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)-いわゆる”筒男三神”=住吉三神の名であることを知る。ときに皇后は、臨月(出産する予定の月)であったが、石を腰にはさみ、帰還の日に出産することを神々に誓って、橿日浦(かしいのうら)(現、福岡県福岡市東区)で髪を説き、みずら(角髪男子の髪に結いなおして、群臣に語った。<-上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借りて、軍を興して高い波を渡り船団を整えて宝の国に臨む、もしことがなれば、群臣の功績であり、ならなければ私一人の罪である>人々はその言葉に感動し、具体的な外征計画を作成したが、その中にあって中心的な役割を担ったのが、将軍、竹内宿禰であった。軍勢は一気にわに津(わにの津)に(現、長崎県対馬市上対馬町鰐浦)から渡海した。三韓征服である。筒男三神ら神々に助けられた皇后は、新羅に到着。皇后らの船を助けた大波は、そのまま新羅の国中に押しあがったので、新羅王は大いに恐れ、戦わずして降伏した。百済と高句麗の国王は、この新羅の降伏を耳にし、ひそかに皇后の軍勢を偵察にいかせたところ、とても勝てそうにないと悟り、自発的に降伏を申し込んだという。新羅出兵から帰還した神功皇后は無事、皇子(のちの十五代応神天皇)を出産。翌年(皇后摂政元年)二月、群卿百寮を率いて穴門豊浦宮(あなとのとようらのみや)で仲哀帝の葬儀を終えると、海路、京へ向かった。その後、皇后は幼子を守って、その異母兄と戦い、新羅再征を割断し、内務外交をつかさどり、摂政六十九夏四月十七日、椎桜宮((若桜ノ宮)にて崩御したと記述されている。神功皇后は日本神話の時代に輝いた女性として、長く日本人の中で理想的母性として語りつながれた。同様にそれを補佐した竹内宿禰は、忠臣、武勇の将の理想像として仰がれることになる。宿禰は成務天皇(第十三代)の治世に初めて<大臣(おおおみ)>に地位につき、その子孫は葛城(かつらぎ)氏、曽我(そが)氏などの有力豪族となったと伝えられるが、そのはるか子孫の坂本家も含め、それを実証する方法を歴史学は持たない。

坂本竜馬の始祖は竹内宿禰1.

竜馬の父、坂本長兵衛(八平直足はちへいなおたり)が、天保9年(1838)に藩庁へ差し出した<先祖書指山控>によると、坂本家は<紀武内の子孫と伝う>とある。伝説上の英雄、竹内宿禰(たけのうちのすくね)がその先祖だというのだ。この人物は伝説上の人で、景行天皇(第12代)から仁徳天皇(第16代)に至る五代に仕えた重臣であったという。三百年あまりも生きたといわれ、伝説上とはいえ、長寿日本一としても知られている。特に武内宿禰をして後世にその名を知らしめたのは<古事記><日本書紀>にある神功皇后(息長足姫尊、おきながたらしひめのみこと)の伝説によってであったろう。伝説の発端は中哀天皇(第十四代、日本武尊の子)が筑紫へ渡り、皇后の同行して、灘縣(ながあがた)の香椎宮へ移ったことに始まる。中哀天皇八年の秋、九月五日、皇后へ神託が下った。<天皇は熊襲の服さぬことを憂えてはいるが、海のかなたには金銀豊かな国がある。この国を天皇に与えよう>熊襲よりまず、新羅を打つべし、との神託の旨を皇后は中哀天皇に告げた。ところが、天皇はこれを疑い高い岳に上ってはるかに大海を見渡したが水平線のかなたにそのような国は見えなかった。神託を信じなかった天皇に怒った神は<神をそしる天皇には、その国を得ることはできない。皇后の腹中の子がその国を得ることとなろう>と再び皇后に宣託したという。この神託をしたのは竹内宿禰であり、神を疑い変死した中哀天皇がたたらぬように祀ったのが、越前国敦賀郡の気比神宮寺なので、もうすでに、坂本竜馬と福井県のつながりはかなり昔から深いつながりがあったのだ。そして昔、越前国ことに、足羽郡今立郡などを中心に栄えていた豪族で生江(いくえ)氏というのがいたが、竹内宿禰の子、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の後裔と言われている。