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エリザベス洋装店のブログ

スウィンギングロンドンと永平寺とポールマッカートニーのつながり

1963年,ビートルズがロンドンに移り住んだ頃(夏の間はプレジデントホテルに滞在し、その後、ハイドパークの近くのアパートで共同生活した)、社会に大きな変化の波が押し寄せていた。マクミランが予想した通りでも、ウイルソンが約束した通りでもなかったかもしれないが、変化の風は確実に吹いていた。その代わりに、様々なスキャンダルが発覚し、政治が腐敗し始めていた。だが、教育制度が大きく変わったり、イギリスの古い階級制度の壁が取り壊されたりと、よい兆しも見え始めていた。ロンドンも変わりつつあった。スモッグやほこりおおわれた50年代ロンドンの陰気な暮らしは、サイケデリック文化の勃興によって一掃され、<スウィンギングロンドン>が姿を現したのである。こうした変化は、ビートルズにも大きな影響を与えた。彼らはロンドンで新たにさまざまな人に出会い、私生活や創作活動に大きな刺激を受けたのだ。ロイヤルアルバートホールのBBCのライブ録音で、ポールマッカートニーは17歳の女優ジェーンアッシャーに出会い、恋人同士になった。ジェーンアッシャーは子役のころから有名で、のちに俳優のマイケルケインとともに映画<アルフィー>(1966)に出演したり、イエジースコリモフスキ監督の<早春>(1970年)に出演したりした。また、ジェーンとの出会いがきっかけで、ポールはアッシャー家で暮らすようになり、バリーマイルズやインディカギャラリー&ブックショップを通してロンドンのカウンターカルチャーと接点を持つことになった。このインディカギャラリーにあの1959年、アメリカのエレクトラレコードから出てた<the way of永平寺>の2枚組のLPレコードがあったのだ。アレンギンズバーグやジョンケアロックに代表されるアメリカのカウンターカルチャー、ヒッピーに影響を与えた金沢出身の鈴木大拙のおかげで、この永平寺のレコードは出されたと思うのだが、音楽的というよりもパーカッシブで、実に体に非常に強い<禅>の波動を感じる。ポールを通じてジョンレノンもこのレコードにひかれたと思うのだが、当時日本の前衛音楽家の一人は、グレゴリアン聖歌隊とこの永平寺のレコードを同時にかけてre-mixして、まるでDJのように楽しんでいる人がいた。実はポールもこの永平寺のレコードに関心があったと思われるのは、当時彼はカールハインツ、シュットクハウゼンの音楽を勉強していたのだ。1966年サージェントペッパーのLPを出す前、<ユニットデルタプラス>というアバンギャルドのグループの<ミリオンボルトシートアンドサウンドレイブ>という(100万ボルトの光と音のパーティ)に参加した。そこでポールマッカートニーは実験的電子音楽<カーニバルオブライト>は15分にわたってサウンドエフェクトをプレイした。ポールの彼女のジェーンアッシャーの兄、ピーターアッシャーと友人のジョンダンバー(マリアンヌフェイスフルと結婚したばかりの)と手を組んで、マイルズアッシャーアンドダンバー有限会社(MAD)を設立、ロンドンのセントジェームズ地区のメイソンズヤード6番地に、1965年9月、そこにインディカワークショップ&ギャラリーをオープンした。このとき、妹のジェーンの家に間借りしていたポールマッカートニーは、度々、地下室にやってきてエドサンダーズの<peace eye poems>(平和の目の詩集)や<ガンジーの非暴力主義>など様々な本を読んだ。こうして地下室に頻繁に出入りしていたポールはバリーマイルズと友情をはぐくんでいき、マイルズはポールにバロウズやギンズバーグの作品を紹介し、仏教やドラッグやフランス人の作家のアルフレッドジャリが作った造語<パタフィジックス>(形状上学の領域を超えたところにあるものを研究するために使われる哲学)について話し合った。ポールはインディカクラブのオープンに向けて手を貸した。1966年9月にジミヘンドリックスが最初のソロライブをメイソンズヤードとナイトクラブでプレイし、そして1966年11月14日このインディカクラブでワークショップをやっていた小野ヨーコとジョンレノンは出会うのであった。そして小野ヨーコの<グレープフルーツ>の詩集の中にジョンレノンが作ったとされる<イマジン>のオリジナルの歌詞がインスパイアード(影響を受けた)とされたのがこの<グレープフルーツ>のあるということで、アメリカで今年2017年、<イマジン>はジョンレノンと小野ヨーコの共作であると認められたのであった。