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エリザベス洋装店のブログ

三島由紀夫のねじれた生い立ちbyジェニフェールルシェール12.

公威は外部の世界をどん欲に観察するが、自分がその世界から排除されていることを意識していた。病弱なために家族から大事に庇護され、外の世界との接触は制限されていたのだ。公威はまだ5歳にもならないのに生死の境をさまよう。誕生日の直前激しい発作を起こすと、コーヒーのようなものをはいて昏睡状態に陥り、医者が呼ばれる。医者は自家中毒と診断し、回復の見込みは薄いと両親に告げる。倭文重(しずえ)は茫然としたまま、棺(ひつぎ)に入れるための玩具や着物を用意する。夏子は自室に閉じこもっていた。やがて医学博士である倭文重(しずえ)の兄が、意識のないこの小さな肉体から排尿があったことを認める。脈は正常に戻り、一命は取り留めた。公威は一週間で回復したが、その後しばらく、月に一回はぶり返し、入院しなければならなかった。病気が完全に収まるのは、小学校に通うようになってからだ。公威が通うことになるその学校は、普通の小学校ではない。祖母の貴族趣味にかなった教育機関、学習院である。昭和6年【1931年】、公威は学習院初等科に入学する。明治10年【1877年】に設立された学習院は、当初は皇族と華族のための学校だったが、裕仁天皇もかってここで学んだ。徐々にそれ以外の良家の子弟にも門戸が開かれていき、公威が入学するころには生徒の3分の一は平民だった。華族の子はほぼ無試験で入学できたが、平民の公威は入学考査を受けなければならない。既に字が読め、詩めいたものを書くことまでできた公威は苦も無く合格した。成績さえ良ければ、一目置かれるというのであれば、公威にとっては学校は救い足りえたであろう。だが厳格な規律に支配されたこの小集団は望んでいた逃げ場所ではなかった。家庭と同じように、他者というこの新たな地獄もまた、公威をそっと一人にしておいてはくれないのだ。身分の違いがあらゆる人間関係を覆っており、公威は自分の家庭背景の貧弱さをいやおうなく思い知らされる。一般家庭の生徒であっても、自分よりも宏壮な邸宅に暮らしていた華族の子弟は尊大さが制服を着て歩いているようなもので、教師のことさえ下に見ている。生徒名簿でも華族生徒の名前は丸で囲んであり、特別扱いを受けていた。公威は社会階層が下だっただけでなく、自分の身を守る力すら持ち合わせていない。腺病質でなよなよしている公威は級友たちからすれば格好のなぶりものだった。少年たちの冷酷な残虐さ、悪への渇望、これらが主題になって、のちに幾つかの短編が書かれることになる。