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エリザベス洋装店のブログ

越知山千躰地蔵と松平春嶽公by上田俊博10.

さて894に福井の橘が出てくる。1812年5月石場町(現つくも町)の紙、墨、筆並びに家伝薬100子圓を製造販売していた正玄家に生まれた曙覧は井出左大臣橘諸兄の子孫にあたる名門の血筋を引いている。橘諸兄の母は橘三千代といい、光明皇后の母でもあり、藤原不比等の妻でもあった。不比等は中臣鎌足の子でもあり、聖武天皇を生んだ藤原宮子の父でもあった。橘諸兄の孫にあたる藤原仲麻呂(恵美押勝)が泰澄大師を招いて建立したといわれる持宝院の塔頭(たっちゅう)に松尾寺があり、ここに護摩堂および五重塔を建て橘屋の寺祖をたてまつっていた。その護摩堂は現在、朝日不動寺となっている。インドから中国へ仏教の伝来とともに、日本に侵入したという痘瘡という病気があった。天平時代【737年】、光明皇后の兄の藤原四兄弟がこの痘瘡で数か月で死亡する。そのため急遽政治を担当したのが橘曙覧の先祖にあたる橘諸兄だった。この時の病の大流行の時、加持祈祷で一時に痘瘡を終息させたのが,かの越前の泰澄大師その人だったのです。当初より痘瘡の流行の周期はだんだん短くなり、幕末期、都会では連年絶えないようになり、越前では4,5年毎の大流行となったようであり、天保10年(1839)、天保14年【1847】この年は春より痘瘡流行、小児過半数が死ぬ。弘化4年(1847)などに大流行を見たらしい。しかし痘瘡流行を防止する手立てというのは全くなかった。ただ神仏に祈るのみである。食うや食わずの貧しさの中にあって師を求める曙覧の気持ちは尊いものである。曙覧のひたむきな心が笠原良策の決意を固め、三岡公正(由利公正)から長崎の出島のオランダ人から痘瘡の種が手に入る情報を手に入れ、自分の子供らにその種を植え付け、藩末の福井中の痘瘡にかかった人たちを助けた。中根雪江も笠原良策も橘曙覧も、3^4歳のころの娘を痘瘡でなくしていたのだ。大飢饉、大地震、流行病、小さくして亡くなった子供たちの為のお地蔵さまはもちろん、人間同士のいさかいで国を揺るがす藩主のため、越知山山頂の千躰地蔵は、一つ一つが今現在のこの幸せすぎる世の中と比べられないくらい大変な生活を強いられていた不安な情勢だっただけに、千躰地蔵の実にすばらしい熱い思いを感じざるを得ない。