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エリザベス洋装店のブログ

泰澄大師と私<東大寺の大仏と福井の砂鉄>by上田俊博。

以前に黒ゆりクラブ主催の<泰澄の禅定道、越知山から白山まで歩く>というイベントに参加し、その最後の締めくくりに泰澄塾のメンバー、角谷さんの講演会を聞き、非常にショックを受けた。泰澄の一つの側面に鉱山師があるというのである。たとえば神社の中で稲荷神社に次いで多いのが八幡神社だが、応神天皇が八幡神社とされ、神格はとても複雑で<やはた><はちまん>と呼び方も様々であり、名義も一定していない。鍛冶の神、農業神、焼畑神、多くの幡の意など一定していない。八幡神は早くから仏教と集合し、これは日本の神が菩薩行をおさめることにより、佛に近づくという神仏習合思想によるものである。東大寺の大仏建立の際、八幡神がその建立に協力することを誓い、東大寺の鋳寺となったという。越前からもこの大仏建立のため、鉄及び必要な三分の一の米を提出している。現在でも足羽川から砂金のとれる場所が美山地区にあるが、そこの川砂からも砂鉄が取れる。金津や芦原の牛山地区でも砂鉄の鉱滓が出土している。ちなみにここら一帯は興福寺の荘園だった。東大寺の荘園でもある糞置の庄(文殊山の北側)でも黄色い田んぼのソブ(泥)から鉄を産出できる。実際、鉄を作るところを見学したが、桑の葉っぱに包んだ田んぼの黄色い泥を窯で焼いて本当に鉄の塊ができていたのはびっくりした。それのいかに泰澄がかかわったかというのがこれからの研究の一つだ。北潟湖周辺から手取川河口付近、黒崎海岸、あそこら一帯は砂鉄の一大産地だったし、船で九頭竜川をさかのぼれる松岡付近が寺の鐘や仏具を作る鋳物の一大産地だった。それを考えると原料となる砂鉄を運べるギリギリの場所だった。江戸時代末期、白山山頂にあった2,000体の仏像のほとんどが松岡で作られたものだと考えると、泰澄と福井の砂鉄の関係は実に興味深い。