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三蔵法師玄ぞう 2010/09/30
ゆいがしじろんとはインド在来の四つのヴェーダー、五明<文法、論理学、仏教学、工学、医学>より仏教以外の外道の諸学はならびに仏教諸部の数学を組織統一セル論点にして、当時の一大百科事典全書といってもいいくらいのものだ。天文あり、地文あり、暦数あり、医学、薬学、生理、衛生あり工学あり、美学あり、心理、論理、科学、哲学あり。去れば最勝子等<最勝子は唯識十大論師のひとり>の、ゆいがしゃくろん>に理極めざる泣く、子と司ざるなく、質破らざるなく、凝集是らルナく、果証せざるなし>と称セルは当たれ利というべし。原典が全100巻の大鑑となったのも当然。この時代の有名な訳経家のなかでも、じくほうご、くまらじゅう、しんだい、ぎじょう、ふくうに比べ、玄ぞうが抜群であるばかりでなく、監督と主役を務めた玄ぞう早張り仏教史上最大にして最高の訳経家といわなければならない。もし三蔵法師玄像が、ほかの誰にもまねできない信仰心を持って、唐と天竺を往復する多事多難の大旅行を文字道理命がけで完遂していなければ、本家本元で滅亡の危機に瀕していた仏教はそのまま消滅していたかもしれないのだ。

by 6014D | 2010-09-30 18:05 | コメント(1) | 未分類


ゆいがしじろん 2010/09/29
唐の太宗に国禁を破って蜜出獄した理由を述べて許しを請う手紙を送り、入国の許可を得ていた玄ぞうが持ち帰った経典は大乗経224部に経と論と律をあわせて、総計657部、運ぶのに馬22頭を要するほどの量であった。皇帝の勅命を受けて、玄ぞうは長安の弘福寺に入り、梵きょうの翻訳を開始し、3年後最大のもくひょうであった<ゆいがしじろん>100巻の翻訳を終える。ゆいがとはヨーガのことでインドで長い間の歴史を持つ無数のヨーガ修行と全体件の積み重ねから生み出された唯識の背tyによれば、客観的な対象として人間の目に映るものは実は実在せず、人間存在の根底をなす阿頼耶識、<あらやしき>が仮に一時的な現象となって姿を現したものである。宇宙蛮勇の根源である阿頼耶識には、ありとあらゆる事物と現象を生み出す種子<可能性>が蔵されていて、人間も自然もこれから作り出され、世界はすべてそれによって展開されていく。ゆいが師が修行によって求める理想の境地は菩薩地である。大乗の菩薩とは、出家と在家をとはず、自分一個の悟りを追求するばかりでなく、他の生きとし生けるもの一切の救済を求める修行者を意味する。このように自他とともに仏道を成就しようとする自他利のきょうちこそ、ぼうだいなゆいがしじろんの眼目をなす思想なのだ。わからなくても千日聞き流せ、毛穴から入ってくればいい。お経は体で体感するものだ。

by 6014D | 2010-09-29 17:44 | コメント(0) | 未分類


ナーランダー寺院 2010/09/29
釈迦が悟りを開いて仏陀となった菩提樹の下に到達したときにあまりに荒れ果てているので号泣した異国の僧の話が伝わって北方のナーランダー寺から迎えが来た。ナーランダー寺院は仏僧徒が数千人おり、大乗仏教のほか小乗仏教、バラモン教の根本聖典ベーダ、因明<論理学>、声明<文法学>、医方<薬学>、術数<数学>など、常時百あまりの講座が開かれ、客層をあわせて数千の僧徒がまなんでいた。これが滅び去ったのは、12世紀の終わりころ、インドを征服したイスラムの軍隊が教室と図書と相貌などの建物を、徹底的にはかい尽くしたからであった。かって緑に包まれたたくさんの教室に、数千の学生がいて、哲学から科学まで蛮勇の学問を勉強していた姿が目に浮かび、この中に玄ぞうも混じっていた。ほかの学生の中にはあの<光光明最勝王経>の新訳を完成した唐の義浄も混じっていたのだった。シーラバトラー法師から<ゆいがじしろん>の説法を三度にわたって聞いた玄ぞうは大乗仏教のみならず、小乗仏教、バラモン教、論理学、言語学とサンスクリット<梵語>の勉強を続け、インドを一周する大旅行を旅し、41歳のときに来たときの天山北路ではなく天山南路をたどり、足掛け3年をかけてようやく故国にたどり着いた。

by 6014D | 2010-09-29 17:03 | コメント(0) | 未分類


サマルカンドからクシナガラ、バーラナシー王国へ 2010/09/28
その後玄ぞうは西へ数百里のウイグル自治区カラシャフル、さらに西へ数百里のウイグル自治区クチャ、天山山脈の7000m級の主峰群をと売る山中の道をとうり、山を下った一行はやがて絹の道<シルクロード>と呼ばれることになる古代の通商路の要所サマルカンドに着く。サマルカンドからいくつもの国を経て南下し、大雪山<ヒンズークシ山脈>山中の道をとおり、アフガニスタンの北部のバーミヤンに入り、ようやく来たインドの境に通じる峠に達した。峠を過ぎると気候も風景も一変する。玄ぞうはまずガンダーラの都城、今のパキスタン、ペシャワルに行った。何よりその真髄を学びたいと思っていた唯識学を大成したアサンガ、バスバンドウの兄弟を生んだ国だが、このころはお受けが滅び、住民はほかの宗教を信仰し、仏寺はほとんど廃墟と化していた。まだ仏教の隆盛が続いているカシミールへ向かい、白い高山がみえるこのくにで、玄ぞうは王がつけてくれた助手20人と経典の書写に専念して、2年の歳月を過ごす。その後釈尊が説法した祇園精舎があったシュラヴぁステー、入滅の国クシナガラがいずれもすっかり高配している有様を目にした後、さらに始めて法を説いた<初てんぽうりん>の地バーラナシーを経てついに釈迦が悟りを開いたところもすでに荒れ果てて昔の面影がないのを知って、礼拝を終えた後、地に身を投げ出し、土をかきむしって号泣した。

by 6014D | 2010-09-28 17:57 | コメント(0) | 未分類


玄ぞう法師とトルファンの国王 2010/09/28
いくら言っても泉はない。焼け付くのどの渇きに耐えかねて、引き返す。玄ぞうの脳裏によぎったものは<われは仏法の真髄を極めるために命がけで天竺へいくと誓ったのに、何故今引き返しているのだろうか。東に戻って生きるより、西に向かって死ぬのが本当でわないか。玄ぞうは馬の向きをかえて西北に進んだ。水が尽きてから四日たち、すっかり体が干上がって馬から転げ落ち、砂に倒れ付した玄ぞうは息も絶え絶えの状態で、観世音菩薩に祈った。我がたびは、財利のためでも、名誉のためでもなく、ひたすら無常の法を求めるためのもの。衆生の苦を救うことを勤めとされている観世音菩薩よ、どうかこの苦をおすくいください。その祈りが通じたのか、それとも胡の老人が言ったとうり、やせた老馬が本当に道を知っていたのか、やがていくら気力を回復して、再びまたがって馬を歩ませていった先に、月に照らされて、泉のある草地が現れた。その草地で一日休養し、水で満たした皮袋と草の束を馬の背中に乗せて、ウイグル自治区トルファンの王城に息一ヶ月の間説法を行った。熱心な仏教信者だったトルファンの国王は玄ぞうの高い風格と豊かな賀寿式に打たれ、離れるときに、法服30着、黄金100両、銀銭3万枚、綾絹500枚、奇特千万の寄付を行い、馬30頭に従者4人、人夫25人をつけてくれたほか、西域24カ国の王に当てて、一通ごとに大綾一枚をふした紹介状を書いてくれた。この莫大な財宝がなければ、たぶん玄ぞうが生きてかえってくることはなかっただろう。

by 6014D | 2010-09-28 17:24 | コメント(0) | 未分類



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