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エリザベス洋装店のブログ

太閤検地と劔神社

 越前の一向一揆を鎮圧した信長は天正3年<1575>、府中三人衆<前田利家、佐々成政、不破光治>に支配をまかせた際、寺社領の没収を命じましたが、劔神社の領地は例外としました。また天正5年<1577>には柴田勝家が検地を行い、劔神社へ約1500石を寄進しました。豊臣秀吉の時代になって慶長3年<1598>、越前で太閤検地が行われました。織田の劔神社で太閤検地が行われたのです。神官達は驚いてこう言い放ちました。<織田信長公は、その先祖をたどれば劔神社の神官だった。秀吉は信長公の家臣ではないか。当社へ検地に入るとはどういうことか。>これに激怒したのでしょう、37カ所の社殿を全て焼き払いました。劔神社側は抵抗したものの、織田寺別当神前院初め18人が討ち死にしました。結局この検地により旧来の社嶺は没収され、寺家の19屋敷、一町2反あまりだけが除地<免税地>として認められました。そして江戸時代になっても、結城秀康から劔神社へ土地を寄進されても神社の復興は進みませんでした。そこに徳川家康が出てくるのです。

劔神社は日本最古の神宮寺?

日本で最古の神宮寺は気比神宮寺<敦賀>で、霊亀元年<715>、藤原武智麻呂<むちまろ>が霊夢によって建立したと伝えられています。そして、気比神宮寺に次いで古い若狭神宮寺<小浜>の前身である神願寺<じんがんじ>は、若狭彦神の神主、和宅継<やまとのやかつぐ>の曾祖赤麿<そうそあかまろ>が仏道に帰心し、養老年間<717〜723>に道場を建て、仏像を安置し、神願寺と称したと伝えています。これらが日本で最古の神宮寺です。ところが劔神宮寺<織田町>は、劔神社所蔵の梵鐘<国宝>に劔御子寺、神護景雲四年<770>と銘文があり、しかも劔神社境内 では寺院の礎石が二個発見され、その様式が白鳳時代であり、織田町織田に所在する小粕窯跡では白鳳末期、<710年頃>の軒平瓦が発見されていて、その供給先が劔神社境内に所在した白鳳期の寺院である確率が誠に高くなってきたのです。じつは先ほど泰澄塾の忘年会に織田町教育委員会の堀さんがいらっしゃって、彼いわく、劔神社は泰澄が作ったのではないかと踏んでいるとおっしゃっているのです。日本最古の神宮寺が越前に三つもある。しかも神宮寺とはお寺で神様を祭ってある。これぞ神仏習合を推進していた泰澄につながっている。先日劔神社の境内で発掘された土の中から奈良時代の須恵器が出土した。

森浩一先生の<ぼくの考古古代学>

元同志社大学の森浩一先生のすばらしい本<ぼくの考古古代学>に越の大徳、泰澄を探るというのがあって泰澄研究の課題として次のことがかかれてあった。キーワードは<山岳仏教>と<越>。越とは越前の国から秋田市あたりまでを含んでおり、非常に広い範囲である。中国の稲作地帯、華中から日本に古く入った発音が呉音であり、奈良時代より前に日本に入った発音である。たとえば静脈という言葉。静寂、静止<せい>は漢音で北のほうの音であり、静<じょう>は呉音である。呉音でこの<越>というじをはつおんすると<おち>になる。<えつ>は漢音、それと<こし>。この三つの音は、同じものをどの発音で呼んでいるかの違いである。最初は<越>と一時で書いていたものを、奈良時代ごろから二つ字で表し、発音がなくても二つの字であらわすことが流行し、そこで智や知をつけた。<越知山>というのは、呉音で発音された<越>の地名である。なぜ呉音で発音したのかは明らかではないが。ジグソーパズルを一つ一つ埋めていくように、ゆっくりと外堀から埋めていくのがいい。外堀を埋める箇所をできるだけ多く見つけ、研究を広げていきたいものである。<越>を解明すること、これも泰澄研究の外堀のひとつである。すごい。

福井にもあったATRANTIS伝説

丹後風土記によると、かって若狭湾に存在し神の怒りによって海中に沈められた島があったという。若狭湾を囲む山々に登ると、水平線上にやっと島影を確認できるほどの絶海の孤島がある。冠島といい、舞鶴沖10kmに浮かぶ南北1,300m、東西600mほどの細長い島である。オオミズナギドリの繁殖地であることから、普段に立ち入りできない。その北にはさらに小さな沓島,<くつじま>があり、地元では冠島を大島<雄島>沓島を<雌島>と呼んでいる。二つの島の周囲は険しいがけとなっており、なかなか近ずくことさえできない。この二つの島の神秘性をさらに高めているのが、地元に伝わる伝説だ。冠島は大昔の大地震で陥没した凡海郷<おおしあまのさと>という陸地の一部だというのだ。凡海郷とは、かって丹後国加佐郡<現在の舞鶴付近>にあったとされる郷名。大浦半島に隣接する大きな島であったようなのだ。701年、凡海郷は三日三晩つづいた地震で峰二つ残して海に沈んでしまったという。その峰が冠島と沓島。許された地元民が冠島に立ち入ることができるのも年に一度のおしま参りのときだけ、一般の立ち入りは硬く禁じられており、なぞがなぞを呼んで興味は尽きない。

幸福は福井からやってきた。

かって大ブームを起こした旧国鉄広尾線の幸福駅<こうふくえき>帯広市。この幸福に福井の秘密は隠されていた。幸福という名はもともとは幸震<さちない><後に音読みされてコウシンというアイヌ語地名だった。その後、この地に、福井から入植した人が多かったことから、幸多かれという意味も含めて、幸震の幸と、福井の福を合体させて幸福としたのである。北海道にはほかにも青森団体<占冠>、山形団体<遠別町>、越中団体<南富良野町>、兵庫団体<石狩町>、岐阜橋<下川町>、広島<北広島町>、鳥取<釧路町>、山口<札幌町>そして福井<札幌市>みんな北海道に残る地名である。明治以降、北海道には全国から開拓民が入った。入植した人は、青森県の4万9,800人を筆頭に、新潟県4万9,573人、秋田県4万4,793人、石川県4万1,606人、富山県4万1,306人と続いてる。東北、北陸地方からの移民が多い。北の厳しい自然と大地を相手に格闘した開拓者たち。つらく絶望的な日々もあっただろう。先ほどの地名はどれも出身地ゆかりの知名だ。これらの地名には開拓民の汗と涙がしみこんでいるといっても過言ではない。福井からも泰澄が開いたいとしろ地区の住民の大勢が北海道に移住したのが記録にのっこっている。北海道にいる移民した人たちの子孫たちが自分たちのルーツ探しに一生懸命になっていろいろ本を出されているみたいだがどれを読んでみても涙なしでは読めない本ばかりで、実にすばらしい。先祖を知ることは、明日の自分のみの振り方に実に役立つのだ。そう先祖が自分を導いてくれるのだ。