アソビねっブログ

明智光秀 2011/01/29
若いころの明智光秀は美濃の国可児郡<現在の岐阜県可児市>の明智城を本拠としていた。<明智軍機>によると光秀について次のような記載がある。弘治2年<1556>明智城は斉藤義龍の大軍<斉藤道三の息子>に包囲され猛烈に攻撃された。これで最後と思い、おいの光春とともに城に火を放ち暗闇にまぎれて北へ逃れ、油坂峠を越え、大野の穴間村まで逃れて潜伏していた。光秀は北条流の軍学者で見識と抜群の手腕の持ち主であり、詩、歌,管弦の道にも精通していた。光秀は以前から詩歌に堪能な称念寺の薗安上人と懇意があり何度か称念寺をたずねていた。上人は潜伏していた光秀のことを聞き、ある世ひそかに使いを出して光秀を長崎に連れ出した。そして門前に一軒の家を借り家族で住まわせたのが1562年以降のことだった。約5年間寺子屋で付近の子供や若者の教育に当たり、薗安上人と花鳥風月を詠じたり、大阪堺へ鉄砲術や戦術の修行のたびに出たりしていた。またあるときは2人で北潟湖に舟を浮かべたり旅に出たりしていた。あるときは山代温泉のお湯に使って光秀は明智家再興のために力を蓄えていた。<みちせ残してや洗うあがねのつちもあらわに根上がりの松>この歌は光秀が雄島の神社の宮司の家に泊まって薗安上人と三人で百韻の連歌を詠じた折、浜坂の塩越しの松を詠じた歌である。当時の不遇な心境を表す作品として残っている。光秀は朝倉氏に使えようとしたこともあったようだが、永禄12年<1569>ころから織田信長に仕えるまで、丸岡の長崎で妻子と一緒に暮らしていた。称念寺には光秀の妻、きこが髪の毛を売って夫のために金を用意したという有名な逸話が残っている。また元禄2年<1689>8月8日松尾芭蕉が称念寺によったときにこの話を聞き、感激して読んだ歌がこれだ。<つきさびよ、あけちがつまのはなせしむ>

by 6014D | 2011-01-29 16:14 | コメント(0) | 未分類


称念寺 2011/01/29
仏教が各地に伝わり始めたころの681年に、今の三十八社町で泰澄大師が生まれた。大師は14歳で越知山に通って修行を続け、大宝2年<702>文武天皇から鎮護国家の法師の名を与えられ、717年には白山を開き、白山信仰の先駆者となった。大宝2年<702>丸岡の豊原寺を創立し、養老5年<721>泰澄は丸岡町長崎に阿弥陀堂を創立し、それが少年時のルーツとなっている。堺平野の北部一帯がまだ湖だあった大昔、その中に長く突き出た先があり、この地は長崎と呼ばれていた。泰澄画船で白山へ行かれる途中、長崎の貴誌にある労松に船をつなぎ上陸された。それでこの地を舟寄や長崎となずけた。ここは大変景色のよいとこで大師は寺を建て仏教を広めようと思われ3月に元正天皇の勅許を得て一堂宇を建立された。一時宗の第2代他安真教<たあしんきょう>は一編上人の一番弟子であり、正応3年<1290>ここが時宗の念仏道場となった。延元3年<1338>新田義貞<徳川家康の先祖に当たる>の遺骨がこの寺に葬られ、室町将軍家は安堵状と寺領を寄進し、将軍家の祈祷所となった。寛正6年<1465>後花園天皇の綸旨<天皇の命を下に伝達する文章>を受けて、天皇家の勅願時となった。文明5年<1473>朝倉時代に寺境内は長崎城となり、一向一揆の戦乱で金津の東山へ寺ごと避難移転した。永禄5年<1562>明智光秀が門前に寺子屋を開いて、次の年明け地の三人目の娘の玉<細川がラシャ>が生まれた。慶弔8年<1603>結城秀康は少年時に38石を寄進し以後歴代の福井藩主からの貴信でたらが整備された。

by 6014D | 2011-01-29 15:43 | コメント(0) | 未分類


若狭湾沖に隠された竜宮城の乙姫伝説 2011/01/28
去年12月28日に書いたブログの<福井にもあったアトランチス伝説>に出てきた若狭湾沖の沓島のすごい秘密がわかった。実はこの島は奈良時代までユダヤの神が祭られていたという、竜宮城の乙姫伝説がここから発祥しているというすごい場所だったのだ。沓島は女島、雌島ともいい、近くの冠島<雄島、男島>とともに舞いずる沖約37キロ、若狭湾の湾口に浮かぶ孤島である。艮の金神、竜宮の乙姫が幽閉されていた霊域とされ、大本教の開祖、出口なおの神示により、明治33年7月に冠島、続いて8月に沓島が開かれた。<丹後国風土記残欠>に、かってこの海域には凡海郷と呼ばれる大きな島があり、大宝元年に地震で海底に没したが、二つの高い山の頂だけが残り、これを今になずけて常世島、俗に2つの峰を男島、女島といい、<島ごとに神の祠あり、祭るところは天火明神と日子郎女神也>とある。天橋の古いやしろ籠<かご>神社の祭神はこの冠島から遷座したとも伝えられる。りゅうぐう城は701年3月3晩つづいた地震でしずんでしまったのだ。ちなみに、籠神社は伊勢神宮の外宮に祭られているヤファウエのユダヤの神だ。

by 6014D | 2011-01-28 18:41 | コメント(0) | 未分類


卑弥呼は天照大神である。 2011/01/28
安本美典氏によると、卑弥呼は天照大神だそうです。わが国の古代のことを記した古事記、日本書紀には、天皇の系譜が記されている。そのため、ある人がある人の何代前の人かはわかる。しかしその人が西暦何年ごろの人かという実年齢はわからなかった。そこで実年齢がはっきりしている第31代用明天皇以後の天皇について調べてみた結果、天皇一代の平均在位年数は、大体10年ないし14年程度であることがわかった。この平均在位年数を用いて、用明天皇から35代前の天照大神が活躍していたのは西暦何年ごろであるかを推定してみた。すると天照大神が活躍していた時期は<魏志倭人伝>に記されている倭の女王卑弥呼が活躍していた時期と重なり合う。卑弥呼が死んだ前後に、西暦247年、248年と二年続けて、北九州の上をほぼ皆既日食といえる日食が通りすぎている。ほぼ360年に一回ぐらい起こる皆既日食が2年続けて同じ場所で見れるというのは非常に珍しい。天照大神の天岩戸隠れの話は、皆既日食のことが神話化したもののように見える。魏志倭人伝に記されている女王の時代は古事記、日本書紀の神話の時代と重なり合い、ひとつの事実を語っていると考えられる。筑後川の賜物として三世紀に勃興した邪馬台国は、この世紀の終わりに、倭王神武に率いられて東遷し、大和朝廷となった。

by 6014D | 2011-01-28 18:11 | コメント(0) | 未分類


GHQの悪巧み 2011/01/28
GHQ<連合軍総司令部>の政策は実にたくみでした。2600有余年続く太くて強い日本の縦の絆や、その下にどっかと張っている根っこをくらまし、ばらばらに断ち切ってしまうことが、日本を弱くする第一だと考えたのです。日本が再びアメリカの脅威にならないように、これを徹底させる。そのためには、日本人一人一人の根っこである家族制度を破壊すること。そのことが、皇室を中心にまとまっている<中心帰一>(ちゅうしんきいつ)の思想を解体してしまうことだと考えたのです。彼らGHQは<古事記>がわが国で最も古い、しかし最も尊ばれている文献であることも知っていました。(古事記、神代)が(日本の神話)といわれていることも知っていました。その冒頭(天地<あめつち>のはじめのとき高天原<たかあまはら>になりませる神の名は天之御中主神<あめのみなかぬしのかみ>)と、神のみ名によって、(中心帰一)思想は示されています。それは堅固としたものであることも研究の上で進駐し、思想戦を開始したのです。これまでの家族制度は、すべての悪の根源であったが、これを打破することで、女性の未来はばら色だとGHQは声高に語りました。女性たちは、次第に熱に浮かされてきました。昭和23年、民法が改正されますと、進歩的な女性たちは旧民法の家制度の下での女性差別などを数え上げました。子供を生まない、自由だ権利だとまで言い立てました。現在、少子化が進み国の将来の大きな不安材料になってますが、この思想がその遠い原因になっていることは確かでしょう。

by 6014D | 2011-01-28 17:48 | コメント(0) | 未分類



アソビねっ管理メニュー

このお店の基本情報を見る
■カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
■以前の記事
■カテゴリ
他のショップブログを見る