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隕石と本能寺の変とユーミン 2011/03/31
長篠合戦で壊滅的な大打撃をこうむった武田勝頼を攻めほろぼす作戦に取り掛かった天正10年2月のころのこと。キリシタン宣教師の記録では2月14日夜10時ごろ、東の空が明るくなり安土城天守閣の上が明るくなり、安土城天守閣の上が赤く見えた。さらに22日夜9時ごろ、彗星が現れた。しかも数日間続いた後、安土山に落ちたという。何か恐ろしいことがおきる前兆と考えられた。<イエズス会日本年報。>本能寺の変は、それから二ヶ月ちょっと後に起きている。やはり吉凶は予告されていたのであろうか?そして本能寺の変前夜に行われた茶会について、羽柴秀吉の要請で毛利攻略戦に出陣する直前、織田信長は本能寺書院で茶会をもようした。博多商人の島井宗室を正客とし、秘蔵の茶器を披露している。博多商人が正客とあれば、毛利攻略の次は九州征伐、さらに外国貿易の相談でもしていたのか?という話より、男たちの狙いはその秘蔵の茶器にあったという。焼け落ちた本能寺の跡地から割れたその茶器は信長から秀吉へそして家康とわたって粉々に割れた茶器も見事に復元され現存している。そして天正10年<1582>6月2日未明。山陰平定に出陣予定の明智光秀が野心か怨恨か謀叛。1万3000の兵を率いて京都本能寺の信長をおそい森蘭丸その他の近習ともども打ち平らげたとあるが、実は森蘭丸は福井の三国に生き延びて、子孫が三国家という豪商になり、江戸末期の越知山千躰地蔵のお地蔵様を寄進している。そして江戸末期に三国家からユーミンという学者を算出しているのだった。

by 6014D | 2011-03-31 18:52 | コメント(0) | 未分類


寺野東遺跡 2011/03/31
メソポタミアよりも6,000~7,000年も古いのが日本の縄文文化だというのは重大なことだ。三内丸山遺跡<青森県>や函館空港遺跡群<北海道>は縄文早期から広大な集落を築いて定住していたし、ひえや栗などの選択的栽培<事実上の農業>を営み、直径1mあまりの木柱を使った建築物を建て、長さ30mあまりのロングハウスを作り豊かに暮らしていた。それだけではない。大湯環状列石<秋田県>や忍路<おしろ>環状列石<北海道>などの巨大な配石遺構<ストーンサークル>や黒又山<秋田県>などの人工の山<ピラミッド>を日本各地に残し、天文学、地球物理学と結びついた祭祀施設を持っていたことも確認された。レンガや大理石でできたモニュメントこそ残さなかったものの、縄文文化は注目すべき文化遺産を残して消えていることに注目する必要がある。栃木県小山市の東方、結城市に近いところで広大な円形広場<直径100M>を囲む巨大な土塁、環状型盛り土遺構<寺野東遺跡>が見つかった。いのししや日本じかの骨のほかにミミズく土器や遮光器土器、土面、耳飾などの女性祭祀用具が多数出土し、いけにえの儀式が繰り返し行われていた。男根状の石剣や石棒等の男性の祭祀用具も出土している。冬至の日の出の方向に聳え立つ筑波山が近くにある。おそらくこの寺野東遺跡のマッドサークルも広場の石敷き台状遺構を中心に環状盛り土遺構上にさまざまな施設があるが天文観測施設に違いない。

by 6014D | 2011-03-31 18:14 | コメント(0) | 未分類


世界最古の新石器文化は日本の縄文文化 2011/03/31
日本の歴史と文化が本格的に動き出したのは縄文文化だ。1万2,3000年前、戸口が温暖化して海面が上昇したため日本列島が大陸から切り離されて自然環境が一変する。東日本にぶなや奈良、西日本にしいなどが広がり、大型獣が絶滅して鹿やいのししが多くなった。この環境変化を基盤に縄文文化が成立したのである。豊かな食糧事情を反映して土器が発明され、火を利用した煮炊きの技術や保存技術が誕生し、縄文文化と呼ばれることになった。土器の所見は世界文明の祖国とされるメソポタミアより6,000年~7,000年は古く、1万2,3000年前までさかのぼるのは珍しくなく、太平山元遺跡<青森県蟹田町>では1万5,6000年前の土器が出土して話題になった。日本の縄文文化は世界最古の新石器文化であったということなのである。

by 6014D | 2011-03-31 17:49 | コメント(0) | 未分類


奥州藤原氏による極楽浄土 2011/03/31
後三年の役で勝ち残った清原清衡は奥羽二カ国を統合する唯一の主権者となった。寛治5年<1091>清衡は清原姓を藤原姓に戻すと、阿倍氏の時代に衣川関があった場所に大伽藍を建立して、仏教都市を建設する構想を打ち出した。<平泉の関山を京の比叡山に比し、平坦地を区画して京の法勝寺のような大伽藍を造営する!>今造営された大伽藍軍を見ることはできないが、唯一のこる中尊寺の金色堂は上下四壁を金色に塗り、螺鈿をちりばめた中壇を構え、阿弥陀三尊、二天、六地蔵を安置する。燦然と輝く金色作りであったことが、藤原氏による平泉文化が黄金文化とされるゆえん二なっている。中尊寺は、後に義経追討の宣旨<朝廷の命令>を掲げて攻め寄せた源頼朝が、あまりの豪壮さ、スケールの大きさに驚嘆した寺で、鎌倉にもどるや永福寺建立にちゃくしゅするが、その規模を宇和丸ことができなかったという。いずれにしろ清衡は度重なる戦乱で死んだ人々の霊を弔う責任があると感じていた。そして俘囚の国といわれてきた過去を払拭する必要があり、従来の柵や館中心の集落作りでは理想の形にはならなかった。この世の極楽浄土でなければならなかったのだ。仏教を政治の根底に末、人の心の掌握に勤めた清原は磐城の白河関から津軽の外が浜まで20日あまりの行程の中心に中尊寺を建立し、道の中には一町ごとに金色の阿弥陀を描いた笠卒塔婆を立て、一万有余の村落ごとに伽藍を造営したといわれている。類まれな国づくりだった。清衡、基衡、秀衡の三代百年にわたって栄えた奥州藤原氏も四代泰衡の代に義経をかくまった角で鎌倉幕府に攻められ滅び去っている。

by 6014D | 2011-03-31 17:34 | コメント(0) | 未分類


明治天皇の北陸巡幸 2011/03/30
明治11年<1878>8月30日、明治天皇は、明治9年の東北大巡幸に続いて2度目の地方巡幸となる北陸大巡幸に出発した。巡幸に従うものは右大臣岩倉具視をはじめ、筆頭参議、大隈重信、参議兼工部郷井上馨、陸軍小輔、大山巌、内務大書記官品川や二郎など各省の書記官、将校、騎兵、巡査ら総勢798人で、空前の大規模な行列になった。天皇旗を先頭に立て36騎兵と344人の警察部隊、数十人の地方巡査に前後を守られた行列の肯定は数千キロ、実に72日間に及んだ。東京から関東平野を北に横断してから碓氷峠を越えて信濃路に入り、いったん柏崎の海辺に出て新潟、新発田まで北上し、反転して長岡を回って北陸道に出た。そして日本海沿いに親知らずを越えて越中にはいり、金沢に入って敦賀に抜け、琵琶湖湖畔を南下して草津経由で久々に京都御所に向かったのである。最後に東京に戻ったのは11月9日だった。行く先々において国の末端に連なる区長、戸長、官吏、そして師範学校、医学校の教員と優等生、地方巡査、最後に80歳以上の高齢者を一人一人表彰し、金品を与えて回ったのである。それは大久保利通が白昼公然とテロリストの襲撃を受けて惨殺された直後、天皇が地方官に対して<安心して治民につくせ>と勅語を与えたことに見られるとおり、いまだに安定した支配体制を築くにいたっていない明治政府が末端に連なる地方官吏を掌握することが緊急課題となっていたということである。天皇の顔見せ興行であった。福井では大土呂、浅水、大塩、今庄などに明治天皇の痕跡が残っている。

by 6014D | 2011-03-30 18:25 | コメント(0) | 未分類



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