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ムー大陸 2011/06/30
伝説によると、かって太平洋には巨大なムー大陸が存在した。東西8000キロ、南北5000キロ。東はハワイ諸島から西はマリアナ諸島南はフィジー諸島からイースター島にまで広がる広大な大陸であった。ムー大陸は地球上におけるすべての文明の発祥地であり、母なるムーと呼ばれていた。そこに住む人々は高度な文明を築いており、崇高な宗教や理想的な社会、そして現代とは違う意味でハイテクノロジーを手にしていた。人口は最盛期で約6400万人。全部で10の民族が降り、それをラ、ムーと呼ばれる王が統治していた。ムー帝国は優れた航海術によって世界中に進出し、アメリカやインド、エジプトそして日本にも文明を伝えた。今も残る古代からの太陽信仰はすべてムー文明に由来するという。しかし理想社会は永遠には続かなかった。人々の心に傲慢が忍び寄り、悪がはびこるようになった。帝王ラ、ムーは人々に悪行からとうざかるるようにいさめたがその甲斐もなく徐々に社会は混乱し、ついには末期的な状況に陥る。今から約1万2000年前ついに神の怒りがムー大陸の人々に下った。大陸全土を天変地異がおそい、未曾有の大地震と巨大津波によって、ムー大陸は一夜にして沈没。栄耀栄華を誇った文明も広大な海の藻屑と消えたという。失われたムー大陸の物語を世に知らしめたのは、一人のイギリス人だった。名をジェームスチャーチワードといい、1931年に失われたムー大陸という本をニューヨークで出版。奇抜な内容は評判となり、瞬く間にベストセラーとなった。自身が記したプロフィールによると彼は元軍人であった。1868年若干16歳でインドの駐留部隊に配属されたチャーチワードは偶然に立ち寄ったヒンズー教寺院で一人の高僧すなわちリシに出会う。リシに気に入られたチャーチワードはそこで寺院に伝わる門外不出の粘土板の事を聞かされる。案内された地下の収蔵庫には確かに粘土板があり、そこには太古に沈んだ巨大大陸のことが記されており、何が書かれているのかチャーチワードにはさっぱりわからなかった。悠久の時代とともにリシでも正確な内容は不明だという。そこでチャーチワードは粘土板を<ナーカル碑文>となづけリシとともに解読に成功した。そこで世界中からムー大陸文明の足跡をたどり4冊の本にまとめ出版しこれが今日までつづくムー大陸伝説の原典となる。

by 6014D | 2011-06-30 18:22 | コメント(0) | 未分類


部子山 2011/06/30
池田町と大野市の境に位置する部子山<1464m>は、山頂付近になだらかで広い平原のある山です。そこに能楽の里牧場が設けられており、約30ヘクタールの牧草地で、繁殖メス牛<妊娠期間のお母さん牛>が初夏から秋にかけて放牧されています。この部子山という親しみを感じさせる名前は継体天皇<6せいきはじめころの第26台天皇>の最初の后である尾張出身の目子媛<第27代安閑、第28代宣化、二人の生母>に由来するとされています。部子山はふるくは<目子嶽<めこだけ、めのこだけ>といい、それがなまって<部子>になったのだというものです。山頂近くには目子媛、継体天皇、猿田彦命を祭る部子神社があります。町内の旧家に伝わる<部子宮由来記>によると、男勝りの女丈夫であった目子媛が、池田郷の水源を見定めるため、猿田彦命の案内で峰にのぼり<鏡の池>や<竜馬が原>を眺めて<この峰は実に正常で見晴らしもよく、私の意にかなった。私の生霊をここにとどめ、永住して国家を守護しよう。>といわれた。その宣化天皇の代に目子神社が祭られ、山を目子獄、村を目子村といった。奈良時代には泰澄大師が登って参籠下。室町のころ日照りが続いたので同じ神社で雨乞いをすると、たちまち雨が降り、国中が豊年となって、信仰するものが倍になり、白粟<うらわ><池田町松が谷>の下飲み屋が設けられた。部子山の山頂から360度の展望が聞き、晴天の日には酒井平野から鶴が半島まで見渡すことができます。平成7年に能楽の里牧場が開設されてから林道が部子神社近くまで伸び、わずか10分ほど歩くだけで山頂に立つことができるようになりました。

by 6014D | 2011-06-30 17:23 | コメント(0) | 未分類


日本書紀に出てくる継体天皇の言葉 2011/06/29
九頭龍川、日野川、足羽川の3寡占は、継体天皇が作ったというのはスケールが大きすぎるにしても、治水事業を行い、故障の水を海に流し込み、その水の筋が川になったと考えれば、あながち誇張とばかりも言い切れない。継体天皇が治水に心血を注いだのは農業生産のため。福井市立郷土歴史博物館学芸員の角鹿尚計さんによると日本書紀には継体大王の言葉として<男性が工作をしないとその都市の天下は基金に陥ることがあり、女性が意図をつむっがないとその都市には添加が寒さに震えることがある。だから私水から工作を行っている人々に農業を勧め、后妃は自ら養蚕を行っている人々にそれを勤めさせると聞いている。まして官人や民が農業や紡績をやめてしまえば、どうして国が栄えることができようか。全国にお触れを出して私の気持ちを知らせなさい。>という内容が帰されているという。大規模な治水と自らが率先して行う姿勢。大王の為政者としてのカリスマ性が現れているといえよう。東大寺建立に使われた財力の3分の2が北陸の米だったという。北陸といってもそのほとんどが福井の米だったとも言われる。平安時代編纂の<弘仁式>によると、越前<加賀を含む>の出挙<種籾の貸し出し>量は、陸奥、肥前、上野についで全国4位。越前の米の生産量がいかに大きかったかがわかる。継体天皇が開墾した平野の恩恵は現在も米どころ福井の名のとおり、継体天皇がいなかったら、日本一のコシヒカリも生まれなかったかもしれない。

by 6014D | 2011-06-29 18:14 | コメント(0) | 未分類


福井にあった東大寺荘園 2011/06/29
越前の開発は東大寺大仏の建立事業と深い関係を持ち、その経済的基礎としておおくのしょうえんがつくられていった。東大寺領の荘園が特に越前や越中において活発に行われた理由はこれらの国が当時開発の途上にあり、有望な原野になお多く恵まれた折、またこの地方に適するイネの品種として<越特子>と呼ばれるものがあったらしいことが理由のひとつといわれる。越前が開発の進みつつあった土地であったことは他国より越前国に向かって逃亡してきたものが非常に多かったことでもわかる。天平5年<733>の<山背国愛宕郡某郷計帳>断簡によると逃亡者として知られる32名<16グループ>のうち越前に逃亡しているものは17名<6グループ>に及び、その逃亡年次は和銅年間に集中している。ときあたかも平城京の造営期間に当たっているので、造都のため苦しい課役をのがれるためとされるが、その際彼らが特に越前国を選んだのはまさしく越前が開発の進んだ土地であり、経済的にも新しい生活を営む諸条件に恵まれ栄宝である。そしてこうした経済的発展を背景にしたものが、早くも養老7年<723>に畿内諸国波に越前国も調の銭納が許されており、また土地の開発度を見ても、越前における条里制の発達が畿内諸国に劣っていなかったのだある。今ひとつ、越前は都から距離的に離れていたにもかかわらず、比較的交通の便に恵まれていたことも見逃せない。すなわち東大寺荘園の多くは坂井郡、足羽郡に設定され、国富があり、越前としては最も早く開けた地域である丹生郡に少ないのは答辞における越前国内の地域的会八度の際によるものであろうが、これらに郡に設定された荘園の収穫は、福井平野を流れる九頭竜川などの水運を利用して河口の三国港を経由して回路鶴がつい送られ、そこから愛発関を越えて近江の琵琶湖北岸の塩津、海津にいたり、さらに琵琶湖、宇治川、木津川の水運を利用して平常の都に運ばれたもののようである。したがって北国の偏狭と考えられやすい越前は、かえって経済的に京師のヒンターランドとしてきわめて有望視されていたのである。しかも東大寺大仏建立にさいし食料の3分の2のお米が福井のお米でまかなわれていたことは忘れて輪ならない。そして時代は少し跡になるが越前国に向かって逃亡してきたもののうち菅原道真の息子が越智山の茗荷村に奈良から移り住んで、折立の称名寺を建立し、そこに時代の不思議な縁を感じるのは僕だけではないはずだ。

by 6014D | 2011-06-29 17:51 | コメント(0) | 未分類


三関固守<さんげんこしゅ> 2011/06/28
8世紀以降、平安時代にかけて天皇が崩御したときや、都で不穏な情勢ができたりすると、しばしば三関を閉ざした。三関とは伊勢国鈴鹿、美濃国不破<関が原>、福井県敦賀市南部の旧愛発<あらち>村と滋賀県高島郡マキノ町との境にある有乳山付近とされている。謀反人が東の国に逃れることを阻止するためだ。東の国の軍勢を借りて攻めあがられるのを朝廷は恐れ続けたのである。それにしてもなぜ<西>には関を設けず、<東>だけを恐れたのだろう。しかも愛発関の先は継体天皇の育った場所である。なぜ天皇家の故地をも、脅威の対象としたのだろう。大和朝廷は<東>を恐れただけではない。8世紀初頭、突然蝦夷征伐を本格化させている。そして百年の間、泥沼のような先頭に引きずり込まれるのである。いったいなぜ三関を固守し、蝦夷を打たなければならなかったのだろう。平城京遷都から10年後の西暦720年<日本書紀>、この歴史書は編纂された。この中で、東の国は<未開な国>と烙印を押され住民は野蛮人として描かれ、また<越>を蝦夷の晩居する地と表現した。くどいようだが、<越>は継体天皇ゆかりの地である。日本書紀が編纂される以前は大和朝廷が東の国の蝦夷を征伐し支配した痕跡は乏しく、両者は共存していた可能性が高い。また7世紀の曽我氏政権時、蝦夷との間に蜜月状態が作られていたと思われる。それにもかかわらず、日本書紀は大和建国らい、蝦夷はまつらわぬ野蛮人としてみなし、軽蔑し続けている。日本書紀が編纂されたころから、朝廷は東北に遠征軍を送り込み、9世紀に蝦夷を成敗している。これは律令制度を広める過程で蝦夷が抵抗したとげする。すべての住民の戸籍を作り、耕地を与えてその収穫の中から税を取り立てるという制度に、蝦夷たちが反発したというのである。東北地方には5世紀ころから入植が始まり、その後越、東海、畿内、そのほかの地域からさまざまなにんげんがうつりすんでいた。8世紀に至ると縄文的な文化も影を潜め、日本書紀の言うような<農耕も知らず狩猟に明け暮れる野蛮人<蝦夷>の暮らす東北>とはまったく違う世界が広がっていたのである。

by 6014D | 2011-06-28 18:29 | コメント(0) | 未分類



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