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エリザベス洋装店のブログ

ザ、クリエーター<造物主>と被造物

一神教の神は、英語では<THE CREATOR>です。<THE>がつかない<CREATOR>は、広告業界のデザイナーとか、あらゆることに対して物事を作り出す人のことです。<THE CREATOR>になると、たった一つの存在を示すことになり、これを中国人は<造物主>とやくしました。<造物主>とは、すべてのものを作った神様であり、たった一つの神様であるという考えを含みます。たった一つの神という考え方は日本人にはまったく縁がなかったので、なかなか理解できないと思います。こういうエピソードがあります。日本に一神教であるキリスト教が伝わったのは戦国時代のことでした。日本にやってきたキリスト教の宣教師たちは、日本人が仏様の像を拝んでいるのを見て、これは何かとたずねました。その答えは釈迦如来や、大日如来、薬師如来でしたが、釈迦如来について説明を求められますと、日本人はこの方は、かってインドの釈迦族の王子だった方で、厳しい修行の末に悟りを開かれ、仏陀となられた尊い仏様であると答えました。すると宣教師たちはそれだけで、この仏たちに対して軽蔑の念を示すのです。なぜならば、かってインドの王子であったということは、人間であったということです。人間も含めて全宇宙は彼らの神によって作られたのだから、被造物に過ぎない。だから、こんなものは神でないし、キリストと並べて信仰するなどということは逆に神に対する冒涜になるわけです。

高野山に隠棲した本当の理由vol,2

<大師、去る天長9年11月12日を持って永く穀味を厭い、座禅を好むのとき、実恵に仰せていわく、、<小僧、空海すでに高野の場に座禅せんとほっす。ほかにあらず、これ弥勒出時<下生>をきし、法をして久しく住せしめ、有情を利益せんがためなり>天長9年<832>という年は、空海が都を離れて高野山に隠棲することを決意した年である。<永く穀味を嫌い座禅を好むのと気>というのは、その高野山隠棲を意味している。その理由として、空海は実忠に、<弥勒出時を期す>ためと語ったというのである。これが実忠の捜索でないのなら、空海は59歳のこの時点でも括弧とした弥勒信仰を待ち続けていたことになる。であれば、<御遺告>のあの言葉も、空海自身の遺言だった可能性が大いに高くなってくるのである。空海が嵯峨天皇から賜り、真言宗の根本道場とした東寺には、かって<弥勒八幡山総持普賢院>という。一般にはあまり知られていない別称があった。空海と<同行二人>で四国霊場を歩くお遍路さんがマットっている白衣の背似かかれた梵字は<ュ>という弥勒の種子であり、大日如来のそれではない。この弥勒、八幡信仰を追及していくことで、われわれは個人の究極的な救済法である即身成仏を大成した<普遍人>としての空海とはまた別の、もう一人の空海ーインドの仏のみならず、日本の神々の力も終結して鎮護国家を成就しようとした<日本人>空海と出会うことになるはずだ。空海の心中に秘められた日本への思いは、古代末期から中世にかけて、日本の卑怯として開花する。その源流としての空海密教は、いまだ未開掘のなぞのままに残されているのである。

高野山に隠棲した本当の理由とはvol,1

このように空海と八幡神の間には、きわめて密接な関係があったらしいのだが、八幡神は、その発祥地である九州豊国では、弥勒と同体の神あるいは釈迦と弥勒の中間の時代に、この日本国と民を護る弥勒の分身と信じられていた。この思想は宇佐八幡信仰を通じて、畿内にまで持ち込まれていたに違いないのである。弥勒と八幡の、この秘められた関係についての進行は、どうやら空海にも農耕に会ったらしい。そうでなければ空海周辺に、これだけ数多くの弥勒、八幡のかずおおくの弥勒や旗の影がちらつくわけはなく、弟子たちの間で連綿と弥勒信仰が継承されたわけはないからである。<三教指帰>の中の<都史に向かう>という文章から、空海が若年、弥勒信仰を持っていたことが知れるのだが、帰国して密教を大成した後まで、この進行を保持していたかどうかは<三教指帰>からはうかがうことができない。なるほど<御遺告>にはとそつ天への上生<往生>を帰す言葉はあるが、創作の可能性が高く、そのまま信じるわけにはいかない。ほかに空海の弥勒信仰を裏付けるような文はないのか。探していくと見つかった。<東寺文書>所収の民部省符に、空海が高弟の実恵に語った文章が帰されている。これは実恵が太政官に奏上した公式文書中のものだから<御遺告>よりはずっと信憑性が高い。そこにこうある。

空海が終生信仰したもうひとつの仏 vol,2

空海に師はいないと書いたが、密教の師は確かに日本にはいなかった。しかし密教ではなく大乗顕教の手ほどきをし、あるいはある段階まで空海をみちびいた僧は何人もいたはずだ。その有力候補として慶俊と戒明がいた。慶俊は、かの虚空蔵求聞持法を唐国から請来した道慈の弟子であり、空海が御遺告の中で<わが祖師>と述べた人物だが、彼は<平生、知足天の業を作<な>していた<延暦僧録逸文>。知足天とは弥勒の別名であり、慶俊は弥勒信者だったのである。さらに戒明という慶俊の弟子がいる。戒明は空海いぜんに入唐留学し、大乗仏教論の白眉である<大乗起信論>の注釈書<しゃくまかえんろん>などを持ち帰ったが、同書は奈良時代には偽書とされ、<禁書>扱いになっていた。にもかかわらず、空海は<三教指帰>で同書を盛んに援用している。空海はどうやって禁書を借覧しえたのか。高木氏は直接<戒明からの借用>と推定している。戒明が空海と同郷の讃岐出身という背景もある。両者に交流があった可能性は高いのである。その戒明は、在唐中、<慈氏尊の分身といわれたふだいしの御影を礼拝した><延暦僧録逸文>。慈氏尊も弥勒の異名であり、師の慶俊同様、戒明もまた弥勒信仰の持ち主だったのである。気になることはまだある。空海と八幡神の関係がそれだ。空海が入唐に際し、八幡神に航海の無事を祈ったという話はよく知られている。東寺には空海が感得したという八幡神像があるし、乙訓寺には首から上が八幡、下が空海とされる<八幡菩薩弘法大師合体尊像>なるなぞの秘仏があり、いまだ国の調査は入っていないが、<調べれば国宝級>と寺側では言い伝えてるという。高野山の地主神である丹生明神を祀る丹生氏にも、奇妙な開山縁起が伝わっている。高野山の寺領は、八幡菩薩から丹生氏に送られ、その丹生氏から空海に送られたというのである。帰国した空海が最初に入った高尾山寺<後の神護寺>も、八幡神とは極めて深い因縁がある。同寺は八幡神発祥の地である宇佐八幡神の神託によって道鏡の天皇即位を阻止した和気清麻呂が、八幡神のために立てた神願寺がルーツになっている。後に清麻呂の子が神願寺の機能を移したのが高尾山寺で、八幡神を奉じる和気氏の氏寺的な色彩が強い。その和気氏は当初は、最澄の有力な庇護者であり、最澄による胎蔵灌頂も高尾山寺で行われた。つまり日本の灌頂初修の寺がここなのだが、空海が入住して以降は空海の拠点に変わっていき、天長元年<824>には神護国詐真言寺と改称。天長6年には和気氏よりふしょくされて完全に空海の寺となった。寺名に冠せられた<神護>の神は、寺の成り立ちから行って八幡神以外にありえない。

空海が終生信仰したもうひとつの仏 vol,1

空海が自分の請来した密教に、絶対的な信仰を抱いていたことは、言うまでもない。全宇宙の教主は大日にょらいをおいて存在せず、その大日如来とは、悟りを得たわれわれの心に他ならなかった。内在する<智=金剛界大日>が、その本源の働きに導かれて、内在する<理=胎蔵大日>を発見すると、仏性の蓮華が開く。理智葉ひとつに融合し、その身その心のままに大日如来となって即身成仏するー空海はそう教えた。この即身成仏の教えと、そのための実践法があるのなら、たとえばはるか未来、56億7000万年後の弥勒菩薩の下生を待つ必要などないはずだ。経文によれば弥勒は釈迦の救済の漏れた衆生を救うために、現在の居所である兎卒天<とそつてん>殻地上へと生まれ変わるという。しかしこの地上には、すでに密教がある。人は何も56億7000万年も先まで<成仏ー真実の救われ>を待つ必要などないからである。にもかかわらず、空海はこんな遺言を残したという。<わが亡き後は必ず弥勒菩薩のおわす兎卒天<とそつてん>に住生して尾使えするであろう。そして56億7000万年後には、もろく菩薩とともに下生し、謹んでおそばに仕える>もちろん<御遺告><御結い号>に出るこの言葉は、弟子による、フィクションの可能性が高い。では弟子は勝手に自分の信仰を空海に押し付け、師を弥勒の兎卒天に送り込もうとしたが、そうではないらしい。というのも、空海自身にはっきりとした弥勒信仰があったらしいからである。<三教指帰。野中で、空海は自分の分身である、仮名乞児<かめいこつじ>が<昼夜を問わず弥勒の浄土に心を向けていた<陰陽を論せずにして都史に向かう>と書いてある。この文章から、若き日の空海の弥勒信仰が、はっきり見て取れる。