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エリザベス洋装店のブログ

大化改新

西暦645年の大化の改新<乙巳の変>(いっしのへん)といえば逆賊、蘇我入鹿を滅ぼし、王政復古を果たした古代最大の政変劇として知られている。律令制度の歴史にとっても、この事件が大きな意味を持っていたのは明らかだ。そして入鹿ちゅうさつをくわだてた中臣<藤原>鎌足が古代史最大の英雄としてたたえられ、彼の末裔の藤原は天皇家に最も近い一族として、権威を保ち津図家手いることも周知の事実である。しかし大化の改新をめぐる研究が進歩したおかげで、<なんだか変だ>という意見が飛び出すようになってきた。改革事業は中大兄皇子<なかのおおえのみこ>や中臣鎌足が始めたのではなく、すでに曽我氏が手をつけていた可能性が高くなってきたのだ。大阪市中央区の前期難波宮<なにわのみや>から出土した木管からもほぼ明らかになっている。探しが改革事業をすでに始めていたのは、蘇我潰しは、<改革潰し>なのである。それなのに、なぜ中臣鎌足のほうが英雄とたたえられてきたのだろう。

日本を不幸にした藤原一族のなぞby関裕二

元首相、細川護煕<もりひろ>の外祖父、近衛文麿<このえふみまろ>は、泣く子も黙る藤原北家の嫡流である。その近衛文麿が昭和天皇の前で足を組んで平然としていたというのは有名な話である。ではなぜこの男に損な大それたことができたかといえば、近衛文麿自身が皇族の血を継承していたこと、それよりも<藤原>の末裔だったという自負がこの男にあったからだろう。一般市民から見れば<天皇>は<神のようなお方>だが、藤原から見れば<傀儡>(かいらい)なのだった。だから近衛文麿には<藤原が卑下する必要がどこにある>という気概があったのだろう。何しろ日本で一番皇族をあやめている氏族といえば<藤原>であり、それはなぜかといえば<気に入らないもの><邪魔になったもの>はたとえそれが皇族でも容赦しないというのが<藤原>のやり方だったからである。

太一<伊勢神道で隠された神>

太一とは北極星を神格化させたもので、中国の道教思想では天帝と呼ばれ、紫微宮にすみ、最高神として宇宙を支配している。この<太一>の神が伊勢神道に深く関係しているという。陰陽道の研究かで民俗学者の吉野裕子氏によると、<神々の誕生><岩波書店>の中で、天照大神の荒魂を祀った内宮の<荒祭宮>に、天武朝以来、まったく秘密裏に太一は祀られ千数百年を経たわけである>と述べ、またそれに先立つ、<隠された神々>の中では、内宮は太一を、外宮北斗七星を祀っていると考証している。しかし、伊勢神道のとようけ=くにのとこたち=あめのみなかぬし、、、というこうぞうをかんがえると、むしろ太一は外宮のとようけのほうがふさわしい。とようけの出自からしてもそうなのだ。実際豊受大神は丹波の比治の真奈井に舞い降りた天女の一人だったのである。そして陰陽道では天女は星の精だと考えられている。すなわち天女トユケも星の精だったので会う。当然トユケ一人を地上において天上へ帰ってしまったほかの7人の天女たちは、北斗七星を想起させる。そうだとするとトユケ花煮に相当するのか。北斗七星の第六番目の外側に実は輔星と呼ばれる小さな星がついている。和名をソヘホシというがこれをくわえるとやっつのほしになる。陰陽道ではこのホシのこととても重要視し、金輪星として八人の天女<八乙女>の一番下の妹のトユケだったのである。しかも周知のように地球の回転軸<地軸>は南北の公転面に対して約66,54度傾いているが、独楽の軸が触れるように逆の方向に触れたときに、この輔星が、未来の北極星になるらしい。未来の天帝=太一の座にトユケが座るのである。というよりも、トユケは何度か、<天帝>の座についたことがあり、永劫のときのうちに交代していくわけなのだ。つまり、トユケの大神は、釈尊の涅槃の五十六億七千万後に兜卒天からこの世に降臨するという未来仏としての弥勒菩薩的存在だったのだ。伊勢神道の神観葉あながちそう間違っていたともいえないだろう。それどころか、読み方によっては預言書という側面もあるわけである。明治になって、全国の妙見<ほっきゅくせいと北斗七星を体現した存在>宮の祭神が天御中主神<一部の妙見系では国常立尊>と変わっていく基盤はここにあるといっても過言ではない。

神とは?

にほんごのなかでもその最も奥に潜む言霊では火<カ>と水<ミ>で神<カミ>になる。大本教やその影響を受けた神道系の新宗教では神の語源をこのように考えるところが多い。しかし、日本の神の概念としては間違ってはいないが、言語学的に適切とはいえない。江戸中期の国学者の本居宣長<1730~1801>は<古事記伝>(巻之三)の中で<尋常ならず、優れたる徳のあり手、賢きものを<迦微>(かみ)というと指摘している。これは髪の定義としては、実に明快で優れたものである。さらに宣長はその自註の中で<龍樹霊狐(たつこだまきつね)などの類も、優れて怪しきもの>だからカミになると語っている。すなわち宣長は一種のアミニズム的視点から、人智では理解できないものや、そうした働きを、<カミ>となずけた。その意味では、森羅万象の要素のひとつである<火>も<水>も、それじたいがじゅうぶんに<カミ>としての契機を備えているといえよう。当然、霊妙不可思議の畏怖の対象はカミと呼ばれるのは当然なのである。こうしたカミには宣長言うところのタツ,コダマ<キダマ>などのほか、ミズチ<水霊>、オロチ<大蛇=山霊>、イカズチ<雷>、クワノチ<木霊>、ヌヅチ<野槌=マムシ=野霊>、ハヤチ<疾風>、、、、などなどの動物や自然現象が含まれていた。またに、アミニズムの世界におけるイノチ<生命>の曼荼羅などである。そしてその作用<働き>や頭現のありようによって、カミのほか、タマ<魂、霊、玉、珠>、モノ<物>、ヌシ<主>、ヒ<霊、日、火>、チ<霊、血、地、、、>、コト<言、事>などともよばれた。

柴田勝家

織田家譜代の家臣である柴田勝家は信長の下で多くの功績を挙げ、のちに北陸方面軍の大将に取り立てられるまでになった人物である。そんな勝家は意外にも信長に弓を引いた過去を持つ。当時勝家は信長の弟、信勝に使えており、信長を取り除いて信勝を織田家の当主におこうと、織田家筆頭家老、林秀貞らとともに企てたのである。弘治2<1556>年8月におきたこの戦いは<稲生の戦い>と呼ばれ信勝勢は1800騎余りの兵を率いて信長と戦ったが、わずか700騎程の信長軍に大敗を喫した。不思議なのは後年の事例から裏切りに計れ綱までに厳しいと思われる信長が、このとき自分に背いた勝家を秀貞とともに赦免した点である。いったいなぜ勝家はこの重罪を許されたのだろうか。<信長公記>によると信長の母、土田御前が間に入ったため信長は許す気になったとあるが、本当にそれだけだろうか。そのりゆうについていっせつには勝家が猛将として名高い人物だったからだといわれる。信長は当時家督を継いだばかりで、国内に敵が多かった。そんな中、力のある勝家を見方においておけば役に立つと考えたと見られる。実際、これより後の勝家は信長に忠節を尽くし、多くの戦功を上げ、信長の躍進に大きく貢献していく。