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光明皇后を批判した僧侶、虎関師練 2011/12/27
光明皇后は彼女がハンセン病患者の膿を吸って吐き出したという古くからの伝説があります。それまでは日本の社会はどういう対処をしていたかとゆうと、人々はまず、ハンセン病患者を戸外の広い場所に集めました。そして彼らをわらの座布団に座らせ、ご馳走でもてなし、その後仏教の僧侶が今後についての説教を行います。最後にその病人たちが泣き叫ぶなか、役人たちがわらに火をつけ、彼らを焼き殺したのです。それが日本での当時のハンセン病患者に対する処置だったといいます。光明皇后は、ヨーロッパでもアジア各地でも景教徒たちがしてきたようにハンセン病患者のための専用収容施設を作っていました。光明皇后は浴室を立て、それを貴賤の別なく施し、さらに自分がそこで看護婦のように仕えることを決意したのです。皇后は<私は千人の垢を流そう。>と誓いました。皇后は999人の垢を流し、最後に一人が病の重い、悪臭のする膿のただれたハンセン病患者だったのですが、一度はためらったものの心を決めた皇后は、彼の膿を吸い、それを彼女の美しい歯の間から吐き出しました。頭から足まで、できもののあるところをそうしたのです。<さあ、これでみな吸った。謹んでこのことを誰にもはなさないように>といったところ、病人は光明を放ったので人々はたいそう驚いたということが古い書物<元亨釈書>に載っています。これは仏教に関係のある過去のさまざまな出来事や人物を紹介した本で1322年に記されたものです。福井の越前が生んだ泰澄大師もこの本で紹介されています。著者は京都、南禅寺の僧侶、虎関師練<こかんしれん>という人です。彼は光明皇后に関するこの物語を語った後、光明皇后の行為を批判して言いました。、皇后が温室を立てたのはいい。しかし垢を流したり、膿を吸ったりすることは余計なことである。そんなことをしなくても誠さえあるならば、いつでもどこでも仏を拝めるはずである。皇后の慈悲行為は常識をうしなっている。、、>ようするにこの仏教徒は、光明皇后の行為は仏教的ではないと批判したのです。しかし、彼女の行為はキリスト教的な思想からはよく理解できるものです。さらに聖書を見ると、キリストがハンセン病患者に手を触れて<清くなれ>といい、その病が癒された記事がありますが、そのときキリストは<気をつけて誰にも話さないようにしなさい、、、>マタイの福音書8,4.といっています。光明皇后が<謹んでこのことを誰も人に話さないように>といったのはこの聖書の話が背景にあるように思われます。光明皇后の夫、聖武天皇は、あの奈良の大仏で有名な東大寺をたて、二月堂のお水取り、小浜のお水送り、修二会<しゅにえ>は景教の儀式そのものでもあり、8世紀というような大昔に、景教はこの日本で大きな光明を放っていました。同じ時代ヨーロッパでは恐怖政治と戦争に明け暮れて暗い世界となっていました。ところが同じ地球の裏側の日本では大きな光明が輝いていたのです。

by 6014D | 2011-12-27 17:37 | コメント(0) | 未分類


光明皇后の白血病の息子 2011/12/27
聖武天皇の后、光明皇后<701~760>は景教の影響を大きく受けた人でした。皇后には将来天皇になるべき子がいた。だが白血病と思われる病気のために、その子はしにかけていた。研究者によると、それを見た景教の宣教師であり、医者でも会った、李密医は光明皇后に聖書を読み聞かせた。<マタイの福音書>の発祥です。李密医は聖書を全部持っておらず、マタイの福音書とモーセの十戒だけを持っていた。彼の聖書はシリア語と漢文で書かれていたから皇后は通訳を道してマタイ八章を呼んだ。それはキリストによる病人の癒しが書いてあるところだ。李密医は皇后に尋ねた。<弥師や(メシヤ)が彼を癒してくださることを信じますか><公にはできませんが信じます。>こうして李密医と皇后はともに祈った。すると息子の病は奇跡的に癒されたそうだ。彼女の心は感謝で満ち溢れた。それで以後、光明皇后は慈悲の働きを積極的にするようになった。光明皇后は、夫である天皇からよる氏をもらって、身寄りのない貧窮の人、病院や故事などを収容した巧拙の救護施設<悲田院>をならの都に作った。また無料で病人に薬を分け与える<施薬院>、無料で病人を世話する<療病院>なども作った。そして皇后という身の上でありながら、そうしたところで自ら看護婦として働いた。奈良の法華寺には光明皇后が患者の海を吸って吐き出したという浴室が、今も残されている。皇后自身が病人の背中をそこで洗ってあげたというのだ。光明皇后について書かれた日本の一般の書物を読むと、多くの場ワイ、光明皇后は仏教を篤く進歩してい手、このような慈悲を行ったと書いてあります。しかし実際には当時の仏教徒の間にはこのような事前のかんがえかたやじっせんはなかったのです。当時の仏教は<悟り>を得て<最高の知性>を得ることを目的とし、慈悲の行いをむしろ軽視していました。当時の仏教は国家安泰、鎮護野仏教だったのです。景教徒はアジアの各地で、悲田院、施薬院、療病院と呼べる使節を建設していました。このように光明皇后のしたことはもともと景教徒たちがアジアで幅広く行っていたことだったのです。光明皇后のおくりな<整然の行いにもと図いて死後に送られた名前>である<光明>も、実は景教用語です。景教は<光明の宗教>と呼ばれたのです。

by 6014D | 2011-12-27 17:04 | コメント(0) | 未分類


李密医というペルシャ人基教徒と皇室の関係 2011/12/25
記録によれば736年6月、景教の宣教師であり外科医でも会った<李密医>というペルシャ人が日本にやってきました。また彼と一緒に<景人、皇ぼ>という景教の教会の高位の人物と思われる人たちなどもやってきました。<続日本紀、8世紀>。<景人>とは景教徒の意味です。彼らはその11月に、聖武天皇から位を授けられています。滞在6ヶ月にしてくらいを授けられたところから見ると皇室とこのペルシャ人景教徒、李密医らとの間には、親密な関係ができたようです。李密医や皇ぼは宣教師でしたから、皇族に対し基督教の伝道をしました。そして皇族の中にそれが広まっていったようです。実際、以後宮中の記録にそれまでに見当たらない<景福>という景教用語が散見されるようになります。また聖武天皇による<国分寺建立の詔>(741)の一説に、<あまねく景福を求め、、、>とあります。これは景教的幸福の意味で、中国の景教徒たちが使っていた景教用語です。さらにこの詔では国分寺尼寺を<法華滅罪>の寺と呼んでいます。仏教には本来<罪>の意識はありません。ナノに<滅罪>という言葉が生まれてきた背景には、景教の影響があるといわれています。今も毎年宮中で演奏される雅楽の悦楽点についても、ペルシャから伝わった景教の音楽です>福岡県に伝わる有名な民謡、<黒田節>はそれの編曲から出てきたものです。

by 6014D | 2011-12-25 13:52 | コメント(0) | 未分類


大秦景教流行中国碑 2011/12/21
しかし、景教徒オペロンの皇帝訪問がもし10年早かったら、彼の景教は中国には受け入れられなかったかもしれません。というのは太宗皇帝の前の中国皇帝、高祖は、儒教徒の主張を聞き入れて、仏教を外国の宗教、また西洋の宗教として排除していました。当時、中国から見ればインドの仏教は西洋の宗教でした。ましてや当時、景教は西洋の宗教、外国の宗教として退けられたに違いありません。しかしオロペンが来たときの中国皇帝,太宗は、包容力のある人で、洗練された文化を愛する名君だったのです。景教徒たちは中国に来ると、聖書や教理解説書を中国語に訳しました。<イエスメシヤ教>(序聴迷詩所経)や、<一神教論>その他です。また中国における景教の様子については西安<旧長安>で発見された有名な<大秦景教流行中国碑>が物語っています<781建立>。この景教碑の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。佐伯教授が英語で書いた<The Nestorian Monumento in China>(中国の景教碑)は世界的に非常に高い評価を受けて今もさまざまな文献で引用されています。オロペン以降、713年に中国の広東にガブリエル主教が、744年にはジョージ主教もやってきました。景教の協会には中国の10の省すべてに作られ、全土に広まりました。景教徒の家には奴隷がいませんでした。そのためこのころから中国人の中にも奴隷解放思想を唱えるものが現れます。景教が中国で盛んになったとき、中国社会は本当に変わりました。<大秦景教流行中国碑>に記されたところによれば、ある公爵は得た富を自分のためには用いず、慈善と布教のために投げ出しました。彼は得た富を自分のためには用いず、慈善と布教のために投げ出しました。彼は景教徒を集めて毎年50日間に及ぶ敬虔な大聖会を行い、ともに聖書に聞き、祈りをなすときを持ちました。飢えた人は、その聖会に来ると食べ物を与えられ、裸の人は衣服を与えられました。病人は治療を受けて癒され、また死者は安らかに葬られました。聖会以外のときも、彼の無私の生活と行いは、広く人々によい影響を与えたときされています。

by 6014D | 2011-12-21 18:13 | コメント(0) | 未分類


西暦638年ごろの中国のキリスト教教会 2011/12/21
アッシリア東方基督教はローマカトリックから分かれた後爆発的に東方世界へと広がっていきます。それは中国にも達し、中国では<景教>(Luminous Reigion>と呼ばれるようのなりました。この<景>は日の光、光明の意味です。景教は、中国にいつごろやってきたのでしょうか。西暦578年に<西方の地から>景教徒マルセルギスと彼の家族が中国にやってきて、長安の西約500キロメートルのリンタオに移住したことが史書に見られます。ほかにもまたそれ以前にも中国にやってきた景教徒一家が少なからずいたに違いありません。ペルシャはすでに5世紀には中国と交易を行い、盛んに商人が行き来していたからです。景教徒たちが中国の皇帝を公式訪問したのは635年が最初だったようです。この年、景教僧オロペン<ALOPEN阿羅本アブラハムの意>は21人の信徒を率いて、唐の首都長安に来て皇帝を公式に訪問しました。当時の長安は世界最大の都市でした。このとき景教徒オロペンは、聖書や教理を漢文に訳して唐の太宗皇帝に献納しました。皇帝はそれを呼んで感激し、<これほどの真理は儒教にも仏教にもない。朕、私みずから信じるから全国民よ、朕に学べ>と述べました。こうして景教は、皇帝の保護を受けて635年から約200年間にわたって中国で栄えたのです。景教の最初の教会が638年に長安に立てられました。また以後、中国の各地に、景教の日本で言うなら<国分寺>に当たる教会が建てられました。

by 6014D | 2011-12-21 18:08 | コメント(0) | 未分類



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