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エリザベス洋装店のブログ

秦とアラブ 3by小松左京

この皇帝ー直属文武官僚ー中央集権という政治システムが突如中国に導入されたのは、どうもアレキサンダー侵攻によるペルシャ滅亡と関係があるらしい。秦室に、シルクロードを東へ逃れてきた亡命ペルシャ王族の血が入るとともに、官僚制中央集権システムではインド、中国よりはるかに先進国だった、ペルシャの政治技術も秦に入ったのではないかという気がする。もとよりこれは<秦氏と西アジアーキリスト教>のつながりを論ずるうえの傍証にもならぬほどの、頼りない推測に過ぎない。しかし、キリストが東北へ着て死んだ>というのはあまりに突拍子もない奇譚(きたん)としても、古代日本がユーラシア西域文化と、これまでの<正史>を慎重に設定する論議の制限をはるかに越えるほど緊密な関係があった、という可能性はさまざまの伝説、ふせつ、習俗の背後に濃厚にのぞいている。

秦とアラブ 2by小松左京

そして、面白いことに秦が天下を統一する少し前、当時全世界の最先進地帯である西アジア、オリエント地域に文明史をひっくり返すような大変動が起こった。ー辺境バルカンのマケドニアから起こり、エジプト、アカイメネス朝ペルシャ大帝国を打ち滅ぼし、地中海世界と、西アジア、インド、中央アジアを強引につなげてしまったアレキサンダー大帝の出現である。アレキサンダー大帝領と境を接していたインド中央部では、これを防ぐため、あるいはこれの直接の影響を受けて、大帝の征服と前後してマウリヤ朝という、これまたインドで初めてといっていい、強力な軍事的中央集権国家ができる。ー仏典で有名なアショカ王が、各地を征服し、道路を作り、碑を建てたのも、アレキサンダー帝の少し後である。インドのマウリア朝統一から少しおくれて秦の中国統一が起こる。これは中国の体制、思想両面の大変革を伴う出来事だった。それまでの中国は諸侯、諸王が各地によって、めいめい歴史と伝統を言い立てる状態だった。-古代中国、殷、周も、中原をわずかに抑え、後は諸侯を封ずる形の一種の連邦国家だった。それを始皇帝は、全部ひっくり返して、諸侯を<臣>とし、地方には皇帝勅命の官僚と軍人を派遣し、強力な官僚制を通じて、全土を皇帝の直轄下においた。四方に道路を作り、碑を建てたことはアショカ王と同じである。

秦とアラブ 1by小松左京

<秦>という国がまた面白い。中国は<漢文明>が古来栄えた地と思われているが、<漢文明>が本格的に成立するのは、文字通り、前3世紀から後2世紀までの漢代であって、中国北部の<王朝>は、地続きのユーラシア西方、北方からの侵入異民族によって形成されたことが何度もある。私たちの一番よく知っているのは、北方遊牧地帯から興って、巨大な世界帝国を築き上げたモンゴル人の<元>がそうであるし、20世紀に中華民国ができるまで、二百数十年間強大なる帝国を維持した<清>は南ツングースの一派の女真(じょしん)-満州族であった。もっと前なら、四世紀、五胡十六国以来の小国乱立状態に終止符を打ち、大唐帝国出現への道を開いた、強大な<隋>帝国の王室は、トルコ系だった。古来大変な文明人で乱れた世を統一する、といったことは苦手なようで、まず強力な異民族の覇王に武力統一をさせ、のち正統の名分を立てて<義戦>を持って、その骨格を頂戴する、という例が多いように思うがどうだろうか。そして中国に最初に強大な中央政権国家を打ち立てて、強力な官僚制の元に皇帝親政を行った秦の王室に、ペルシアーつまり、イラン人の血が入っている、という説がある。始皇帝の親は、戦国の、趙(ちょう)に人質にとられていたことがあったが、趙でのあだ名を<異人>といった。始皇帝自身、白面紫髯(しぜん)蒼眼だったという人もいる。秦という国は、黄河上流、現在の西安、唐代首都長安のすぐ近くにあり、ここから西へ向けて、シルクロードがはるかインド、ペルシア、東ローマの地まで続いている。当然、秦は中国統一以前から西域、オリエントーつまり中央アジアから中東世界との交流があったであろう。

秦氏の謎by小松左京

古代の秦氏は、実は異端キリスト教徒だったという説になると、ぐっと現実味を帯びてくる。秦氏は無論、日本書紀をはじめ、勅撰の正史に顔を出す、れっきとした古代豪族である。主に九州と京都を中心に各地にこの氏名を冠した地名も多く、特に奈良時代松から平安初期にかけて、官位に上ったものの名も記録に多い。記紀には応神天皇のころ(三世紀末)、新興、新羅の圧迫を受け、朝鮮半島から秦の始皇帝の子孫を称する弓月君(ゆづきのきみ)という貴族が120県の民、92部族を率いて日本に渡来して畿内周辺に居住を許され、機織の技術を持って、秦氏を名乗ったという。現京都府になる山城国を開いて巨富を築き上げた。推古朝のころ秦川勝は聖徳太子のパトロンとなり、山城の百済系渡来貴族の娘を母に持つ桓武天皇の長岡、平安京遷都にはこの豪族の富がおおいにものを言ったらしい。この秦氏の氏寺が<なき弥勒>で有名な京都太秦の広隆寺である。この広隆寺がまた奇妙な寺で、宗旨は一応真言御室派(おむろは)だが、かっての境内(現在は木島(このしま)神社)に池があって、その池にに三本足の鳥居がある。三本足はちょうど120度の角度で配置されているから、鳥居上から見るとちょうど三枚羽のプロペラのような格好をしている。こんな奇妙な鳥居は、ここを除いて、日本中どこにもないのだが、この三角の形が、ユダヤにおいて重要な意味を持つ紋章だという説がある。まだほかに境内の脇にある神聖な<安らい井戸>はイスラエルの井戸であるとか、10月12日夜に行われる<牛祭り>の祭文が日本語ではなくて古代ヘブライ語だとか、広隆寺地主神大酒(おおさけ)神社は、古名では大びゃくであり、漢語で訳すと<ダビデ>を言う。この秦氏が紀元前3世紀に戦国時代の乱れた中国を統一し、全土に及ぶ強力な統一中央集権国家を初めて築き上げた秦始皇帝一族の末裔である、とすれば話はにわかに面白くなってくる。実を言うとその可能性は、かなりある。例の邪馬台国の記録を載せた<魏志東い伝>に2~3世紀朝鮮半島に情勢が述べてあるが、新羅、百済の勃興する以前の朝鮮半島南部は馬韓、弁韓、秦(辰)韓の三国に分かれていてこのうち秦韓は、秦が漢に滅ぼされたときに亡命した秦人の慶尚道(けいしょうどう)が、後北方から半島東岸を南下してきた新羅に3世紀後半から圧迫され、ついに4世紀半ばに征服された。3世紀末に渡来した秦氏が秦韓の地から亡命したとすると、秦氏は、<秦人>の末裔である可能性がある。

石切神社

大阪の東、生駒山ろくに、石切神社という古い神社がある。近世以降おできの神様として有名で祭神はいちおう石切剣箭命ということになっているが、実を言うと、どんな神様を祭った神社だかはっきりしない。しかもなんとキリストがインドを経て西日本に来たときに、この地で、自分の身代わりになってゴルゴダで処刑された弟イスキリの霊を祭った、それがこの神社だという説があるのだ。紀元前7世紀に、いったん新バビロニアに滅ぼされたユダヤの国は紀元前2世紀に、もう一度王国を立てた。これがローマ共和国に征服され、紀元前1世紀から紀元後1世紀半ばにかけてヘロデ王が出て、一応独立した後、またローマ総督の直轄地になる。キリストはこの時代の人物である。この後ユダヤは帝政ローマに反抗の後、ローマに吸収されてしまう。ところで、このユダヤには<ユダヤ12氏族>という有名な家系があり、古代ユダヤの興亡を通じて、四方へ散っていったことがわかっているが、そのうちの一族だけが行方がわかっていない。その一氏族が実はシルクロードを通ってはるばる日本へやってきたという説がある。もっと愉快なのは、例のエジプトに住んでいて、ラメス二世に迫害を受けてユダヤの民を導いて紅海をわたり、イスラエルの地へ逃れてきたユダヤ民族古代の英雄モーゼがシナイ、ホレブの山でヤハウエ神から授かったという、有名な<モーゼの十戒>を刻んだ石版が四国剣山中に埋まっているとして、戦後30年近くも堀続けている人たちがいる。始めたのは確か元海軍の将官だった人だと思うが、もう何代目かになっているだろう。どんな根拠を得たのか知らないが、古文書たよりに埋蔵金を探すより、はるかにロマンチックには違いない。ロマンチックすぎて夢の世界に遊ぶようなきがする。