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国土草木皆成仏 2012/05/29
その泰澄がいつも周囲の人々に語って聞かせたことは、<白山神である妙理大菩薩がおっしゃるには、生え茂った神聖な木々も種じゅの草類も、すべて私の王子、眷属の居するところであり、一万の眷属は妙徳すなわち文殊菩薩が形を現したもの、十万の金剛童子は遍吉すなわち普賢菩薩が徳を施すもの、そして五万八千の妥女(天女)は堅牢地神すなわち大地の神が威を振るうものであるのだ。>ということであった。木々草草がこれら王子、眷属などの居所というのは、白山神の従者である神々が木々草草に宿っているということになるのである。聖なる存在である白山の自然は、そのすべてが白山神の従者の住まいとしてイメージされ、それゆえに山全体が極めて崇高な存在であると主張された。聖域という観念を強調することによって、そこに住して苦行を執する行者の験力に対する評判が高まり、その評判がまた新たな信者や行者を作り出し、永劫に廃れることのない白山信仰の体系を築き上げたということができよう。泰澄かしょう伝記作成の目的は、まさにこの点にあったのだ。

by 6014D | 2012-05-29 18:08 | コメント(0) | 未分類


泰澄の頭の上の金の光 2012/05/29
泰澄の頭上には時々金光が現れ、人がそれを目にして怪しく思うと金光は消えうせ、人が見ていないときにはしばらく消えず、もし持病のあるものが泰澄の持っている鉢の飯を食べると、その苦しみわずらうところはすぐに治癒した。泰澄は同時に鬼をあやつり神を使い飛ぶ鳥を落とし走る獣をとめるなど、その神力は不思議であった。泰澄が看病禅師と相通ずる能力を有したことを改めて述べたものであるが、貴賎を問わず、治病の術を施し、またその徳ゆえに頭に後光を付していたとする件は<続日本紀>の卒伝に、<和尚の霊異、神験、類に触れて多し、時の人号して行基菩薩とのたまう。>と記された行基を彷彿させるものがあり、類似した性格を有する高僧としてイメージされたと受け取られる。あるいは行基を始め民間で社会的な実践にいそしんだ僧の姿を泰澄に付して<伝記。が形作られたのかもしれない。そして、泰澄の所行は、むしろ修験の祖といわれる役行者(小角)と類似している。<続日本紀>などの役行者や行基の姿を一人の層に集約する形で、泰澄のパー祖なりtyが形成されたとされるゆえんである。

by 6014D | 2012-05-29 17:41 | コメント(0) | 未分類


泰澄越知山入山 2012/05/29
夢のお告げを受けた14歳の泰澄はその年の冬から夜な夜な外出するようになる。父の三神安角が不審に思い泰澄の兄で嫡男の三神安方に命じてその後をつけて、どこに行くのか調べさせたところ泰澄は越知峰の坂本の岩屋に入り、その中で百辺礼拝して、声に<南無十一面観世音神変不思議>と唱え、その後、岩屋を出て越知峰に上った。深夜になったため、兄、安方は坂本に止宿し、明け方帰宅して父に報告しようとしたところ、履物も脱がないうちに泰澄が帰宅した。このような奇妙な出来事が連続して起こった。越知峰すなわち越知山は、泰澄が生まれ育った麻生津から西の方向に当たる。泰澄が西方に向かったのはいうまでもなく夢の中に現れた高僧が西方に住むと語ったことによるものである。麻生津から越知山頂まで直線距離にすれば14,5キロの間隔で、泰澄は毎夜この間を歩いたということになる。無論、現在そのルートなどはわからないが、泰澄寺のある三十八社町から越知山に向かうには、現鯖江市の北部、浅生川にそって経ヶ岳や天神山などの丘陵地帯を迂回する形で西に進み、日野川をわたって、現朝日町の天王川沿いにさらに西へと進む。そして今度は越知川に沿って越知山麓にいたるわけであるが、越知山への登山路はいくつかあり、泰澄の時代の状況までは確認できない。ただ、現鯖江市の北部、米岡町や西番町の辺りは、かって立町郷と呼ばれ、経ヶ岳、天神山の丘陵上には立待古墳群と呼ばれる157基の古墳群が所在する。伝承ではこの<たちまち>という地名は深夜に彷徨する泰澄を案じた母親がこの辺りでたって待っていたことにちなむといわれている。また現朝日町の糸生(いとう)谷の一角、越知川上流の上糸生(地籍上は大谷寺の飛び地)に<伝記>の坂本の岩屋と伝える、金堂と呼ばれる小さな岩屋が山壁に取り付くような形で現存する。中に風化の進んだ石仏が祀られているが、残念ながら、明治のころは人が入るくらいの岩屋であり、当たりはうっそうとした森のようだったという。何度かがけ崩れによって岩屋は小さくなってしまったが風化した岩肌を見ていると1300年前の風化した岩屋は何かとてつもなく不思議なスピリチュアルなものを強く感じる。

by 6014D | 2012-05-29 17:09 | コメント(0) | 未分類


曼荼羅 2012/05/25
曼荼羅というのは<本質>を意味する<マンダ>という梵語に由来し、最高の悟りの本質を得るという意義を有する。そこから密教では悟りを得たところ、すなわち中尊(中心となる仏)である大日如来を中心として、諸仏菩薩のいます領域(壇)を図像化して曼荼羅と呼ぶようになった。曼荼羅は仏、菩薩の在す宇宙そのものをあらわしているのである。7世紀から8世紀にかけてインドで<大日経><金剛頂経>といった密教の経典が成立すると、それぞれの教説に依拠して、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅が描かれ、中尊として大日如来が配された。空海の将来した大日如来を中心仏とする体系的な密教は純密渡渉されるが、この純密画成立する以前にも密教的な信仰は存在し、純密に対して雑密(ぞうみつ)とよばれる。正観音、十一面観音の造像例と信仰の存在は、空海の帰朝以前の日本でも認められ、後世の山岳信仰と密教の密接な関係からすれば、泰澄もこの雑密の影響を受けていたと考えられる。

by 6014D | 2012-05-25 17:38 | コメント(0) | 未分類


越地域の渡来神 2012/05/25
古代の神々に対する信仰を考える上で、忘れてはならない重要なことがある。それはかって<越>と称された北陸地域においてはとりわけ重要な意味を持つものといえるが、大陸伝来の文化、思想の影響である。弥生時代の到来が水稲耕作と金属器の大陸からの伝来によって生じたように日本古代の文化は、そのほとんどが大陸文化の影響を蒙って成立したといっても過言ではない。そして日本海に面した北陸地域は、北九州、山陰などともに、大陸文化が日本海を越えてやってくる表玄関に相当しまさに当時は最新の大陸文化を享受する地域であった。大陸との関係をうかがわせる伝承や大陸文化の要素は、<古事記><日本書紀>をはじめとする古代の分権や各神社の祭神の性格などに見て取ることができ、また近年の調査で出土した遺物の中にも大陸の系統を引くものが含まれることが指摘されている。もっとも有名な伝承のひとつに敦賀の地名の由来伝がある。すなわち<日本書紀>垂仁2年是歳条の分注に、祟神天皇のじだいに意富加羅(おおから)(任那)の王子で角の生えた都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という名の人物が、長門。出雲を経て筍飯浦(けしいいのうち)(現敦賀市)に到着したというもので当時敦賀は都奴賀(つぬが)と称されたと<古事記>仲哀天皇の条にあることからすれば、敦賀という地名はこの渡来した王子に由来することになる。さらに興味深いのは<日本書紀>同条分注に別伝として、この都怒我阿羅斯等の渡来した契機が、日本に逃げた童女を迫ってきたので、その童女は難波および豊国国前郡の比売許曾(ひめこそ)社の祭神となったとされていることである。この伝承は<日本書紀>などにみれる天日槍(あめのひほこ)(新羅から逃げた妻を追って日本にやってきた王子)の伝承と共通のモチーフを有するものであるがいずれも朝鮮半島からの渡来をとき、また都怒我阿羅斯等の童女が神として日本の社に祀られたという件は、北陸地域の神祇の性格を考える上でも示唆に富むものといえよう。

by 6014D | 2012-05-25 17:09 | コメント(0) | 未分類



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