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紫紙金字金光明最勝王教(741) 2012/06/30
<紫紙金字金光明最勝王教>は、天平13年(741)に、聖武天皇の勅命によって諸国の国分寺創設とともに書写され、国分寺の塔に納入するよう配布されたものである。四天王をはじめとする諸天善神による国家鎮護の説教を含んだ経典で、紫紙に金泥でかかれ、一部十巻からなる。国分寺は正式には<金光明四天王護国之寺>といい、四天王による国家鎮護を期待する国立寺院であった。<金光明最勝王教>は、仏教による鎮護国家のシンボルとして製作された教巻であるがゆえに仏法でとくところの七宝のひとつ金色を使い高い技術の持ち主により緻密に書写されたと思われる。正倉院文書によると、この経典を書写するために宮立の<写金字経所>が設けられ、天平18年(746)には71部710巻が完成されたとされている。国宝に指定されるこの巻は、もと備後の国分寺に安置されていたもので、十巻を完存する。優秀な写経生の手になり緒牙で磨かれた金字は今でも光を放って紫紙に映えており、天平期の写経の白眉とされている。<金光明最勝王>)は唐の義浄が訳した全十巻の経典で、鎮護国家の教典として知られたお経である。奈良時代、この経典が政府直営の写経所でうつされ、全国の国分寺に納められた。餓死しかけたトラにわが身を投げ出してみづからのにくを食らわせた王子の説話、いわゆる(捨身飼虎)の話が有名で語られている。

by 6014D | 2012-06-30 17:33 | コメント(0) | 未分類


光明皇后<楽毅論>(744年) 2012/06/30
正倉院に伝わる<楽毅論>は、光明皇后(701~760)が中国東晋(とうしん)時代の能書(のうしょ)王義之が書いた楽毅論を臨書したものである。光明皇后は当時権威を誇った藤原不比等の娘で、東大寺を建立した聖武天皇の娘である。奈良時代は貴族の間で詩文がさかんに取り交わされ、遣唐使が中国から優れた書や道具を伝えたこともあって、書が盛んであった。楽毅論は中国、三国時代の魏の夏候玄(かこうげん)が戦国時代の燕(えん)国宰相であった楽毅(がっき)という人を論じた文章。それを王義之が書いたものが伝来し、その気品あふれる楷書は古くから重んじられていた。早くから仏教に傾倒し、不比等から受け継いだ財産を施薬院などの慈善事業に用いて人々の救済に力を尽くした聡明な皇后は、王義之の楽毅論を真摯な気持ちでくり返し臨書したのではないだろうか。天平勝宝、8年(756)になくなった聖武天皇の冥福を祈るために遺愛の品々とともに東大寺へ献納されたこの作品は王義之の筆遣いの特徴をよくつかみ、原帖のよさをくっきりと浮かび上がらせた、臨書の最高峰と謳われている。書かれている大意は楽毅という将軍が燕の恵王の命を受けて斉(せい)をせめて70もの城をおとしたが、ろと、そくぼくだけは落とせなかった。このことで人々が楽毅を非難したのに対し、彼を弁護した文章が<楽毅論>である。<古の賢人は、大局的、高遠なことを優先させるものだ。当回りしてでも実現困難なときはそこでやめてもよい。どうも楽毅の真意はいまだ理解されていないようだ>と世間の評判に対する疑義を述べている。

by 6014D | 2012-06-30 17:02 | コメント(0) | 未分類


聖武天皇<雑集>(731年) 2012/06/26
<雑集>は聖武天皇(701~756)が31歳のときに書いたしんぴつ(天皇の自筆)で、二歳で夭折(ようせつ)した皇太子、基王(もといおう)鎮魂のために書写したもの。筆者が明白な日本最古の肉筆である。本文は中国の詩文集から仏教に関する140篇余りを抜き書きしたもので、楷書と行書が入り混じった繊細な筆致がすばらしい。使用された白麻紙は上質の材料で表面は滑らかで光沢があり、象牙か玉のような硬いもので磨かれたらしき形跡がある。光明皇后とともに仏教を厚く信仰した聖武天皇は、全国に国分寺、国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立したことで知られる。<雑集>を書いたころはまだ若いが、壮大な国家建設を実行した天皇らしく、筆法は確かである。天平勝宝8年(756)に光明皇后の手によって<楽毅論>(がっきろん)等とともに東大寺へ献納され今日に伝わっている。内容は<雑集>は、中国の六朝、隋、唐(4~7世紀)の詩文の中から、仏教に関するものを抜書き指摘したもの。中には現在中国に伝存しない詩文もあり、文学史上仏教史上貴重なものである。仏の功徳について書かれた詩文が入っている。

by 6014D | 2012-06-26 18:01 | コメント(0) | 未分類


聖徳太子<法華義しょ>(615) 2012/06/26
<法華義しょ>は現存する日本最古の肉筆である。聖徳太子(574~622)が著した<三教義しょ>のひとつで法華経注釈書の草稿本であると伝えられている。太子の真跡か否か疑問視する声もあるが、第一巻冒頭に<此是大委国上宮王私集、非海彼本。(此れは是の大委国(やまとのくに)の上宮(かみつみや)の王(おおきみ)の私(わたくし)の集なり。海の彼(かなた)の本に非ず(あら)>という奈良時代に書かれた添え書きがあるため、なら以前のものには間違いがない。いずれにしても、紙に筆で書かれたものとしては日本最古の貴重なしょである。その内容は<妙法蓮華経はあらゆる善を取りまとめて悟りの種とする豊田で、限りある命を永遠の生命にする妙薬である。釈迦がこの世に現れた意義は久しく人々にこの法華経を説いてあらゆる善行画悟りの一員に帰するという道理を身につけ、無二の大いなる物価を得させようと願われたからである、、、>と説き始める、聖徳太子による法華経の注釈書の冒頭部分である。

by 6014D | 2012-06-26 17:39 | コメント(0) | 未分類


浄土真宗 2012/06/26
親鸞がいつ、どのようにして妻帯したのか、異説もあって明らかではない。しかし京都で法然の下で念仏修行をしているときに、京都の豪族、三善為教の娘と結婚したのではないかという説もある。そして彼は四男三女を設けている。実はこれには、六角道で百日参籠を行っていたとき、聖徳太子が救世観音となって現れて、彼に伝えた言葉があった。菩薩は、、行者宿報設女犯、我成玉女身被犯。一生之間能荘厳、臨終引導生極楽行者(行者、宿報似て、設(たと)ひ女犯すとも、我玉女の身と成りて犯せられん。一生の間、能(よ)く荘厳して、臨終の引導して、極楽に生ぜしめん)>と、親鸞に告げたのである。<もし、修行するものが、前世からの宿報で、たとえ女性を抱くことがあったとしても、私が玉のような女性の姿となって抱かれてあげよう。そして一生私がその仏導者の身を包み守り、臨終の際には導いて極楽に生まれさせてあげよう。>菩薩の言葉があったとしても、僧としての妻帯が現世で許されるはずがない。そして承元元年(1207)、法然が僧位を剥奪された法難の際に、親鸞もまた還俗させられ、越後へ流されたのである。有名な言葉であるが、親鸞は<歎異抄>の中で<善人なお持て往生を研ぐ、いはんや悪人を矢>と帰している。こうして、親鸞は、罪人として還俗させられ、僧侶としてあるまじき妻帯をしてもなお念仏を唱えることで救われるとする強い他力本願の思想を<浄土真宗>と名づけたのだった。

by 6014D | 2012-06-26 17:06 | コメント(0) | 未分類



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