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エリザベス洋装店のブログ

明智光秀画像の秘密vol,5

天正10年5月28日、丹波亀山(また亀岡につくる)城に集結した光秀の大軍は、亀山城を発して愛宕に詣で、翌日西の坊威徳院の行祐の下に一宿し、百韻連歌の会を催し、僧行祐をはじめ連歌師の紹巴昌叱などとも講じている。そのときの光秀の有名な句に<ときは今あめが下知るさつきかな 光秀>とあるのは、いうまでもなく冒頭の<とき>の句に彼の出である土岐氏をかけたものである。こえて五月晦日そこを夜半に出発して桂川を渡り、6月1日将兵8千余騎が京都四条西ノ洞院の本能寺を指して殺到したのは、東雲(しののめ)の空がまだ開け切らぬほの暗いころであった。信長襲撃は光秀の完勝で局を結ぶところとなり、信長は本能寺で矢と弾創を受けて殺され長子信忠は二条城で焼死した。よく二日夕方、光秀の軍勢一同は、西ノ京の妙心寺に引き取った。そこで光秀は多年の宿怨も一朝に晴れ渡り、今は思い残すこともなく切腹しようと覚悟し、仏殿で合掌することやや久しかったが、しばらくたって、辞世とおぼしい一連の詩句の書き連ねたのを自書して仏前に供えた。このとき妙心寺塔頭(たっちゅう)の大嶺院(廃寺)に僧となっていた慈沢というが、この光秀の気色を見て取って光秀麗下の日比、三宅の二将にこれを告げ、その自刀を思いとどまらせたといわれている。辞世の詩句は五言絶句になっていて<順逆。不二の門,大道、心源に徹す>五十五年の夢、覚めきたって一元煮帰すというのである。

明智光秀画像の秘密 vol,4

光秀の筆跡で手紙の類は多少残っているが、最もめずらしいのは平凡社発行の世界百科事典に載せた多賀博所蔵で、<色深き花の藤波さきそひて御池にやどるいく千代の影 光秀>とした短冊であろう。まことに見事な手跡で、彼が並々ならぬ文雅の人であったことを十分に証拠立てている。光秀は、古く豊臣氏の時代はもちろん徳川時代のころに出た野史俗書にあやまられて、主殺しの汚名を着せられ、今日に至たるまで世間からあしざまに言いなされ、乱臣賊子の張本人みたいに扱われているが、秀吉にしても家康にしても主殺しと称して彼を非人呼ばわりする資格などもう党内のである。その人となりについてみても、いわゆる戦国時代の武将とは選を異にし、猪突勇猛の野武士的存在ではない。深く禅要を収め、優れた詞藻をもった現代で言う文化人であり、その上築城術や野戦攻城の術にかけても、当時まれに見る豊富な知識と経験戸を持つ。無双の名将であったといっても決して言い過ぎではない。ただ光秀の使えた主人公が、新井白石の歴史世論に言う、<天性残忍にして詐力を持って志を得た>信長が出会ったばかりに、光秀にとっては命運の尽きるところとなったしだいである。

明智光秀画像の秘密 vol,3

ではいったいどういうわけで、こんな町寺の本徳寺の光秀の画像が伝わってきたのであろうか、という問題になるが、この問題をあきらかにする前にまず、本徳寺に着いてその沿岸歴史を一応知っておく必要があるであろう。明治末期に本山に当たる京都妙心寺に差し出した同寺の由緒書には次のごとき記事が出てる。本徳寺は抱いたい霊雲院派下の妙心寺末寺となり改ざんは南国梵珪和尚で、単心祖印、函海准禅以下の歴代和尚は天文2年以後の本徳寺に住した歴代の住持に当たるわけである。こういうわけで、明智光秀が始めて開いた海雲寺の遺物が、後年この本徳寺に引き継がれたものであったわけで、画像もそのひとつであったことがわかるのである。

明智光秀画像の秘密vol,,2

この賛文で明智光秀の法名も明らかになり、ことに法名の輝字に<光>を隠し、秀
琇字に<秀>を隠している点は、最も注意すべき点で見逃すわけには行くまい。またこの賛文に寄れば光秀が確かに海雲寺(本徳寺のこれらの異物は跡に述べるように海雲寺から持ち去ったものである)で没していることになるのも重視すべきものがある。いま賛文の大意をわかりやすく意訳して述べてみると、大体<惜しいかな百年を保つ身でありながら、主技利基礎の真形を図画の中に見ようとは、念仏三昧に毎日おくっていたのをすてさったが、いま墓場に植えの木の前に立つと御身は地を易得て大きな禅寺の草むらのうちに眠っている>とでも言った意味合いである。賛はもちろん後賛であることがわかる。世間一般の通念では天正10年の山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀が小栗あたりの百姓長兵衛の竹やりで殺されたことになっているが、後に述べるようにこの説には確かな根拠はないのである。それにしても本徳寺には現にもと海雲寺似合った光秀の画像を伝え、なお奇妙にも霊名をあらわして折らぬ、ただ当山開基としてその下に小さく慶長4年と飲み掘り込んだ裏面には何の文字も示さぬ不思議な光秀の位牌、光慶の位牌は何を語っているのだろうか。光秀は大永6年の生まれであるから天正10年では56歳に当たり、慶長4年では73歳に当たる。

明智光秀画像の秘密vol,1

本徳寺は岸和田市内の五軒屋町にある寺で、あまり人に知られた寺というのではなく、戦災に焼け残っ手、今洋館まがいの商家が軒をつらねるごみごみした繁華街の裏道理に家と家とではさまれて立つ町寺のひとつである。私が始めて本徳寺を訪ねたときには、運良く、画像はもちろん、光秀の位牌、光慶(後の南国梵珪和尚)の位牌なども見せてもらい、その上またいろいろと光秀についての話を聞いた。画像は見せるたびに絵の具がぼろぼろ剥落するので、めったに人には見せぬことにしているという。この明智光秀の画像は、絹本着色になる相当の大幅で、眉目秀麗のひとりの美丈夫が模様を織り出した紗の黒地鳥帽子をかむり、みずいろ直衣(のおし)に似た狩衣装束をつけ、右手に中啓を持ち脇差を腰に挿して畳座に端座するところである。いかにも堂々とした高貴の武将姿である。私は一見してその口元の尋常で鼻筋の通った美貌の持ち主こそは疑いも泣く明智光秀の像であると直感した。天正10年慶日本年報の近江坂本城の落城を叙したくだりで、フロイスが、光秀の二子は同所で死んだというが長子(光慶)は13歳で、ヨーロッパの王候ともみ揺るがごとき優美な人であった。彼らは今日までも現れないゆえ、うわさのとおり死んだのであろうと思われるが逃げたというものもある>といって長子光慶伸び男子であったことを特筆しており、また細川婦人ガラシャにしても、これまた諸書二絶世の美人であったことを述べている。したがって彼らの父に当たる光秀も美男子でないはずはない。事実光秀が美貌の人であった由は種々の本にも載せられている。そこでこの画像はどうしても光秀が信長を殺害する数年以前の寿像と認めて誤りあるまいと思う。寿像であれば、画像春遺品のあまりない天正期の作成に帰しなければならぬわけで、おそらくその描写や設色に見る古体素朴の風はこれを天正期の作の擬定しても、まず大差ないであろう。絹はやや荒めの絹であるが、顔料もかなり剥落しており、布彩もひどく退色している。それに表装も幾分や連れを見せてはいるが、それでも一文字や中回しの切地は立派な古代錦が用いており、見るからに由緒ありげな掛幅装の軸物である。賛文は、七絶で、しかも画面全体が茶褐色を帯びて、黒い炉もよほど薄くなり、肉眼では読める字もあれば読めない字もあるといった具合で、その前文を読み下すことは用意ではないが、今前文をつづってみると次のとおりである。