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遣唐使 vol,5 2012/09/30
唐の都に着いた遣唐使たちは皇帝に謁見する機会を持ち、さまざまな許可を申請しました。唐では外国人の国内見学や買い物には、皇帝の許可が必要だったのです。唐の都の市場には、世界中から集まった珍しいものが並んでいました。中でも使節が好んだのは書物でした。書物は地位語句の進んだ知識を満載したテキスト、日本にとっては、いわば最新総合辞典のようなものです。肯定から承った品をすっかり書物に買えて帰国した日本人留学生もいたようです<唐の記録に載るこのjんぶつはどうやら吉備真備だったらしいのです。

by 6014D | 2012-09-30 10:04 | コメント(0) | 未分類


遣唐使vol,4 2012/09/30
若き日、仲麻呂と入唐下吉備真備と玄ぼうは、733年の遣唐使とともに帰国しました。このときも、第四船は海に消えました。無事帰国を果たした船は、唐の優れた知識や文物がつまれた、まさに宝船。天平文化の隆盛の影には、このような命をかけて海を渡った遣唐使たちの働きがありました。遣唐使の最も重要な使命は唐と外交関係を結ぶことでした。遣唐使には二つの顔が合ったといいます。(奈良大学教授、東野治之氏)日本にとって表向きは対筆の外交>しかし、唐につけば朝貢使(ちょうこうし)。(形式的に君臣関係を結ぶ使者)として肯定に謁見するのでした。つまり遣唐使の役割には<本音と建前>があったわけです。唐についた遣唐使は唐風に名前も変えました。たとえば阿倍仲麻呂は朝衡、藤原清河は河清と名乗ったようです。この微妙な外交関係が成立してこそ、唐の優れた文物や新しい知識を学び持ち帰る許可が下りたのでした。朝貢はおおよそ20年に一度と、唐に対して約束を結んでいたようです。遣唐使の船旅は過酷で、常に市の危険と隣り合わせ。間投詞の歴史は遭難の歴史でもあったのです。八世紀の遣唐船でどう吹くとも無事だったのはわずかに二回ほど。彼らにとって、まさに人生を書けた船出でした。

by 6014D | 2012-09-30 09:58 | コメント(0) | 未分類


遣唐使 vol,3 2012/09/30
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山にいでし月かも 阿倍仲麻呂のこの有名な歌は、唐を離れることが決まったこの都市に呼んだものといわれています。奈良の春日山のふもとは、古くからの神地。遣唐使たちは旅立つ前に、この地で航路の無事を祈ったといいます。仲麻呂は帰郷にか。際してもそれを思い出し、心の中で帰国の無事を祈ったのでしょう。奈良は彼にとっても<心のふるさと>だったのです。岐路につく遣唐船四そうのうち、第一船に大使の藤原清河と仲麻呂。第二船になったのが鑑真(がんじん)でした。この偶然が明暗を分けることになりました。遣唐船の遭難の多くは岐路で起こっていました。息はなんと言っても大陸を目指すので、少々航路がずれても、大陸のどこかにたどり着きます。しかし帰りは小さな島国を目指すので、ひとつ間違えば大海原に漂って、どこに着くのかも、その方向すらわかりません。彼らの乗った船は何の上嵐に見舞われてしまいました。第一船は安南(あんなん)に漂着。清河と仲麻呂ら生き残った十数人がやっとの思い出長安に戻りました。二人とも二度と日本の土を踏めませんでした。鑑真の乗った第二船は、幸福にも九州に漂着。鑑真にとって、12年間の苦難の末に実現した来日でした。

by 6014D | 2012-09-30 09:32 | コメント(0) | 未分類


遣唐使 vol,2 2012/09/30
さらに出発は、東シナ海が大荒れする夏でした。遣唐使節画肯定の元旦の儀式に列席するために、秋の出発では遅かったのです。何とか無事に中国の海岸についても安心はできません。都の長安まで、陸路とはいえ、日本列島を横断するほどのきゅうりを行かなければなりません。しかも入京の人数は制限されていて、長安まで行くことが許されたのは全体の一割ほどだったようです。入京した仲麻呂は太学(官吏養成のための学校)で学び、官吏試験に見事合格。玄宗皇帝に認められ、調停に使えて高官に上がりました。仲麻呂は、唐の官吏試験に合格したことがわかるただ一人の日本人でした。李白(りはく)や王維(おうい)といった唐の有名な詩人たちと交友するなど、国際的な英知に富む人物だったようです。733年入唐の遣唐使で帰国を願い出ますが、不許可。752年にやっと帰国を夜去れました。仲麻呂の喜びはいかばかりだったでしょう。

by 6014D | 2012-09-30 09:26 | コメント(0) | 未分類


遣唐使 vol,1 2012/09/30
平成19年(2007)四月、来日した中国の温家宝首相葉、国会演説で、阿倍仲麻呂や鑑真和上(がんじんわじょう)の名を上げました。阿倍仲麻呂は遣唐使として中国にわたり唐王朝に使えた人物です。日本に帰ることを切望しながら、それがかなわず、73歳で長安に没しました。阿倍仲麻呂の足跡から遣唐使の苦難のたびをたどって見ましょう。霊亀2年(716)、19歳の仲麻呂は遣唐留学生に選ばれました。翌年、唐に向けて出発します。旅の仲間には23歳の吉備真備や留学僧の玄肪害真下。数年前、中国の西安市で墓誌画発見され、話題になった遣唐留学生の井真成(せいしんせい)もこのときの留学生といわれています。遣唐船は四そう、総勢557人の旅立ちでした。一向は吸収から直接中国を目指す、遭難の危険が大きい南の航路を進みました。当時朝鮮半島の新羅との関係が悪化していたので、半島の海岸沿いに行く北の航路は進めなかったのです。

by 6014D | 2012-09-30 09:16 | コメント(0) | 未分類



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