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エリザベス洋装店のブログ

ソグド人

シルクロード貿易で活躍したのはインド商人、ペルシャ商人、ソグド商人、アラブ商人、それにシリアやウイグル、ユダヤ、アルメニア出身の人々など。その中でも最大の商人がソグド人でした。事実上、シルクロード貿易を支配したのはソグド商人だったといっても過言ではありません。ソグド人の故郷ソグディアナはユーラシア大陸のほぼ真ん中、パミール高原から流れ出る河に潤わされたオアシス都市国家です。中心がサマルカンド(康国)で、東西交通の十字路に位置する重要な場所にありました。ソグド人は青い目に高い鼻、濃いひげに栗色の巻き毛が特徴で、唐代には胡人(こじん)といえばソグド人を指し、シルクロード貿易ではソグド語が特に東アジアの国際貿易の共通語になっていたようです。東京国立博物館には法隆寺献納宝物(ほうもつ)として遣唐使がもたらしたと考えられるビャクダン香とせんだん香(いずれも香木)が伝わっていますが、そこには漢字やパフラビー文字(古代ペルシャ)とともにソグド文字の焼印が押されています。

経典、日本国を護る。

天然痘がようやく終息した天平10年(738)、聖武天皇は行政の建て直しを行いました。藤原氏に代わって台頭したのは、光明皇后の異母兄弟の橘諸兄でした。そして、正解に彗星のごとく登場したのが、吉備真備と僧侶の玄ぼうでした。この二人は716年の遣唐使の船で阿倍仲麻呂と中国に渡り、ともに秀才の誉れ高い人物でした。特に玄ぼうは、帰国後、長く患っていた聖武天皇の母、宮子の病気を一度で治したことから、天皇の絶大な信頼を得ていました。ところが天平11年(740)、この二人を名指しで非難し、解任を求める反乱が九州で起こりました。首謀者は藤原広つぐ。彼は光明皇后の甥に当たる人で、大宰府の次官でした。反乱の報告が天皇の元に届くと、すぐに1万7千人の兵が九州に差し向けられました。反乱軍はあっけなく壊滅。ひろつぐは捕らえられて斬首されました。事件はすぐに収束したものの、身内からの反乱に天皇や皇后の心痛はいかばかりだったでしょう。この直後から、聖武天皇は平城京を出て各地を転々とし、5年間も戻りません。いわゆる<彷徨5年>の期間です。これは天皇の逃避行や気まぐれと解釈されがちです。しかし最近の発掘調査によって実はきわめて周到に計画されていたことがわかりました。5年の遍歴は何か一定の構想基づいての行動と考えられております。出発前に天皇自ら<朕意(われおも)ふところあるにより手、今月の末、関の東に住かむ>とはっきり告げています。きっと何か特別なお考えがあったのでしょう。飢饉や疫病が続いたこの時期、天下安寧を誰よりもねがったのは天皇ご自身だったはずです。天平13年(741)2月、聖武天皇は諸国に国分寺、国分尼寺の建立を命じました。7重の塔をたて、その中に金字で書いた<金光明最勝王経>を収めるよう命じたのです。金光明最勝王経とは、護国の経典である<金光明経>をさらにバージョンアップした経典です。703年に中国の義浄が新しく増訳し、その15年後に留学僧侶の道慈によって日本に伝えられました。、この経典を尊ぶ君主は四天王が護る>と強調してとかれます。聖武天皇が描いたビジョンは、この経典によって日本全土が護られることだったのです。正倉院には、金光明最勝王経を包んでいた経ちつが伝わっています。(第58回正倉院展出)。白と紫の絹糸で<天平14年2月14日東力>の文字がくっきりと織り込まれています。美しく装飾された経ちつから、この経典にこめた当時の人々の熱い思いがしのばれます。

天平9年の異常事態

天平時代、それまでに経験したことのない恐ろしい伝染病が日本を襲いました。天然痘です。遣唐使が持ち帰ったのでしょうか。大陸から伝わったこの伝染病の猛威に、当時の人々はなすすべもありませんでした。事態は天平7年(735)8月、九州の大宰府官内で厄病により多数の死者が出たとの記録になります。伝染の勢いは止まらず、東の諸国へ拡大しました。天平9年(737)になると、大倭(やまと)、伊豆、若狭、伊賀、駿河、長門の諸国から疫病の流行が報告され、政府は病気の症状や治療法を全国に向けて通達しました。しかし、政府の取りえた策は、寺社による祈祷と<体を暖かくして寝ること><健胃剤の服用>などの指示。これが精一杯のようでした。厄病は、とうとう都の中枢を襲いました。この年の4月から8月にかけて<続日本紀>には、政府高官の死亡記事が次々に記されました。藤原不比等の子として政界で活躍していた藤原四兄弟もすべて死亡。現在でいうなら内閣総理大臣と閣僚の約半数が数ヶ月のうちに次々と病死してしまったことになるのです。この異常事態に政府の機能は完全にストップしました。疫病の流行はもはや疫病を超えて行政組織の問題になりました。<続日本紀>は記録します。公郷以下天下百姓まで相次いで病死するものは数え切れない。<近き代より以来、これ有らず>(今まで、このようなことは起こったことがない)と、高熱が続き、全身の発疹。やがて発疹に膿がたまり下痢を起こし重症になると皮膚や粘膜から出血して死に至る天然痘。そのあまりに激烈な症状から<神の仕業>と人々は思ったようです。当時、、疫病の流行は、天子の徳のなさが原因>と考えられていました。天子つまり天皇の政治責任というわけです。しかしこの疫病は倭が福井が生んだ泰澄の加持祈祷によって終息しました。

家政婦のミタ

NHKの連続テレビ小説<純と愛>の脚本を手がける遊川和彦さんは去年、テレビ離れが急速に進む昨今では金字塔とも言える記録を打ち立てている。最終回で関西36,4%、関東40%と驚異的な視聴率を出した読売テレビ系の連続ドラマ<家政婦のミタ>。社会現象ともなったこのドラマの脚本を担当したのも遊川さんだった。松嶋菜な子さん演じる家政婦の三田灯(みたあかり)が崩壊した阿須田家を建て直していく物語。妻が自殺し、父親や男手ひとつで、2男2女を育てる家庭に、遊川さんは自身の生い立ちを重ね合わせた。幼いころに失踪した実の父親を阿須田家の父に重ね、ドラマ終盤、家族再生を誓わせたのだ。遊川さんの持論は<脚本家は結局、自分の人生の中から出てくるせりふからしか書くことはできない>。彼は脚本家になってからの25年、毎日10時間以上を執筆に当てる生活を続けている。心の奥底から搾り出し、つむいだ物語は見るものの心をつかみ、夢中にさせ、伝播させる。人気タレントをそろえたキャストでもなく、大量のCMでもない。優れた映像作品の原点はあくまで脚本にあるという事実を再認識させたのが、<家政婦はミタ>だった。

泰澄も写経者のうちの一人だった。

この事業は、天平8年(736)から20年間も続けられ、書写された総巻数は、約7000巻と推定されます。通称<五月一日経>と呼ばれるこの膨大な経典は、東大寺から正倉院聖語蔵に伝えられ、現在約1000巻が現存します。ほぼ毎年、正倉院展にも出展されています。経典は仏の教えであるとともに、学問の大切なテキストでした。印刷業が発達していない当時、すべては人の手で書写。<五月一日経>のような膨大な数の一切経(経典の集大成を意味する)の書写は移す人、経典として仕立てる作業、そのための収容施設の準備など、想像を超える大規模な事業となり、中国でも肯定の命令のもとで行われました。写経は選ばれた写経生によって写経所で行います。仕事は泊り込み。食事と作業着が至急。数日間の連続勤務で赤痢や脚気、用う通などの病気も多かったようです。写経は、一字のミスでいくら、五字のミスでいくらと、給料から天引きされました。一行抜かすと、ほとんど丘陵がなくなるくらいの厳しい罰則規定制度がありました。暑い奈良の夏など、座ったままでの連日の写経作業は、思いのほか過酷な仕事だったでしょう。最高峰の書風とたたえられる天平写経の数々はこのような人々によって支えられていました。泰澄もその写経者のうちの一人でした。