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エリザベス洋装店のブログ

デルシャノンの悲しき街角(1961)

福井でも僕が8歳のころ、順化小学校2年生の春から夏にかけて、数少ないラジオから流れてくる洋楽の中でもオンエアーされていたほうだと思う。全米ヒットチャートで1961年4月24日から4週間no,1だったせいもあってビートルズよりも先にビートルズの曲で全米のヒットチャートインしたので有名。この曲のおかげで1963年ロンドンのロイヤルアルバートホールでビートルズと共演したことがきっかけで当時イギリスでも1位になっていたビートルズの<フロムミーツーユー>を彼デルシャノンもカバーヴァージョンを発表し全米でヒットしたからである。デルシャノンことチャールズウェストヴアーは1939年12月30日ミシガン州グラントラピンズで生まれ、高校生のころは黒人コーラスバンド<インクスポッツ>をコピー。デルシャノンは同時代のその種のポップスターと決定的に次元の異なる資質、才能を発揮している。たとえばデルの作品は自作が多かったがそのほとんどが当時のティーンエイジャーの極端な感情を吐露しており、悲痛で攻撃的な作品ばっかりだった。自ら引くギターは刺激的なハイトーンを強調しており、彼のヴォーカルがついて回る。マックススルックのミュージトロン(シンセサイザーの前身)はちゃちだけどかっこよく、当時としては極めて前衛的だった。この悲しき街角の間奏に流れるきゃっちーなメロディーが郷愁を感じ非常に情に訴えかける。またハンクウイリアムスのレコードから採用したというマイナーからメジャーへ転調するパターンの多いデルの作った曲調もどこかシュールだった。つまりデルは後年に成熟する、開花するロックのスピリットなり形式を先取りしたアーティストだったのだ。ジョンレノンをしていわく、デルシャノンは永遠のアイドルだった。R&;Rよりもロック時代にふさわしいオリジナリティがあった。10代のアイドルにはない深遠な魅力とロック音楽にコミットしてゆく姿勢があった。ビートルズ出現以降リリースされた1965年の<太陽を探せ>(keep searchin’)も、ティーンポップアイドルの甘さがどこにもない。サウンドも当時の先端を行くブリティシュビートグループの音に負けない分厚くて攻撃的なものだった。ひたすら失意と敗残者の運命を歌い続けたデルシャノンのパラノイアは1989年の2度目の来日の翌年の猟銃自殺で終わりを遂げている。悲しいもんじゃない。1度目の来日は1967年10月にヒッピースタイルでtv<ヒットパレード>に出演しただけだが(福井でもオンエアーされた。見た!かっこよかった)もみあげをながくのばしくびにびーずのネックレスを飾り、スローテンポの悲しき街角67年ロックバージョンを歌う。その姿は鬼気迫っていた。1966年に来日した外人タレントはビートルズ、ビーチボーイズ、エバリーブラザーズ、コニースティーヴンス、フランスギャル、シュープリームス、1967年はppm,ウオーカーブラザーズ、クリフリチャード、ダスティスプリングフィールド、ニールセダカ、ヴィッキー、1968年はダイナマイツをバックにカスケーズ、モンキーズ、アニマルズ。1969年サム&デイヴ、ブレントンウッズ、すごい。

歴史の勝者、神功皇后と応神天皇

夫の仲哀天皇の死によって、祟る神の存在を知った神功皇后は、新羅征伐を決心された。そこで三月のある日、自ら神主となり、武内宿祢に琴を弾かせて神を呼び出された。中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を召し入れ神の言葉を明らかにする審神者(さにわ)にし、神の名を問いただしたという。すると七日後、ついに答えがあった。神々が名乗り出てきたのである。それによれば伊勢国の天照大神の荒魂(あらみたま)を筆頭に、稚日女尊(ひるめの尊)、事代主神であるという。さらに審神者が言うには、日向の橘小門(たちばなのおど)水底にいる底筒男(そこつつのお)、中筒男(なかつつのお)、表筒男(うわつつのお)(住吉三神)ということだった。そこでこれらの神々を篤く祀り。熊襲(くまそ)に兵を差し向けると、あっけなくあちらから投降してきたという。ここから神功皇后の山門(やまと)攻めが始まる。福岡一帯を打ち取り、夏4月、神功皇后は佐賀の玉島の小川のほとりで占いをし、吉兆を得ると男装をし、新羅征伐の準備を始めた。長崎の対馬から新羅に出向し、神々の援護を得て、新羅をあっという間に征伐した。うわさを聞きつけてきた新羅や高麗も神功皇后の軍門に下ったという。遠征を成功させた神功皇后は12月筑紫に凱旋し、福岡県かすや郡宇美町で誉田別皇子(ほむだわけのみこ)応神天皇を産み落とした。翌年2月神功皇后は穴門の豊浦宮(とらのみや)の戻り、仲哀天皇を葬ると、ヤマトを目指した。ところが応神天皇の即位を阻止しようと腹違いの兄かごさかのみこと忍熊王(おしくまのみこ)がはかりごとを巡らせていた。なぜ兄が弟に従わなければならぬのだといって二人の皇子は東国の兵を起こし軍備を整え、播磨のあたりに陣を張った。この時狩りをして占いをしてみたところ、赤い猪が現れ、かごさかのみことを食い殺してしまった。兵士たちは動揺し、忍熊王はあわてて大阪の住吉まで陣を引いて逃げ帰った。これの対して神功皇后は武内宿祢に銘じて皇子を守らせ、じわじわと囲んでいった。そして京都の宇治に追い詰められた忍熊王は、結局近江にのがれ、瀬田橋の渡し場(琵琶湖の入り口)に入水して果てたのだった。翌年には仲哀天皇を河内(かわち)の葬り、神功皇后摂政3年春3月に都を磐余(いわれ)に置き、応神(誉田別皇子)は皇太子になった。

神を疑い変死した仲哀天皇

仲哀天皇3年3月、仲哀天皇は神功皇后を福井県敦賀市の角鹿に残して、南国(南海道、四国と紀伊)に巡航し、紀伊の赴いたとき、九州南部の熊襲がそむいた。そこでその足で穴門(山口県)に向かい角鹿の神功皇后を招きよせた。神功皇后は福井県若狭のぬたのみなとを経て、日本海伝いに夫のもとにやってきた。この時、豊浦津の海中で、如意珠(にょいのたま)を得たという。一行は5年後九州北部の筑紫にわたり、岡県主(おかのあがたぬし)の祖、熊鰐(わに)は仲哀天皇のうわさを聞きつけ、船を飾り、周芳に出迎え、神宝をささげ、服従した。次に筑紫の伊都県主の祖が、玄界灘に面した周辺の首長層たちが、仲哀天皇に従い、魏志倭人伝で有名な奴国(なのこく)の橿日宮(かしのみや)に入ることができた。その時の9月、熊襲征伐の軍議を開いたとき、神功皇后に託宣が降りた。<天皇はなぜ熊襲が服従しないことを憂えているのだろう。これは不毛の地で、むなしい国であり、なぜ兵をあげて、打つ必要があるというのか。海の向こうに宝の国がある。まばゆいばかりの金銀財宝が、その国にある。これを新羅の国という。もし、私をしっかりと参るなら、戦わずしてその国を服従させることができるであろう。またそうすれば熊野もなびいてくるだろう>だが、仲哀天皇は、神の言葉を疑ってかかった。高い丘に登りはるかに大海原を望み見たがどこにも国は見えない。そこで天皇は神に口答えしてしまった。<海ばかりで国はありません。それとも空のかなたにでもあるというのでしょうか。どなたかはしりませんが、私を欺こうとしているのでありませんか。わが皇祖や諸将の天皇、神々を皆まつりましたが、まだ漏れた神がいるとでもいうのでしょうか>すると神は神功皇后に向かって、次のように語った。<天津水影のごとく(水に移した影のようにはっきりと)見えるあの国をなぜないといって私をなじるのか。信じないのなら、あの国を得ることはできないであろう。ただし、今皇后は孕んでいる。その子(応神)がかの国を得ることになるだろう>仲哀天皇はこの神の言葉を無視し、ついに熊襲を攻めたのだった。結果、惨敗し、むなしく引き上げてきた。9年の春2月5日。天皇は突然病の床に就き、翌日亡くなられた。日本書紀はその原因を<即ち知りぬ、神の言(みこと)を用ゐたまはずして、早く崩(かむあが)リマ死ぬることを。)と説明する。すなわち神を信じなかったために亡くなられた、というのである。神功皇后と同行していた竹内宿祢は、天皇の喪を秘匿した。竹内宿祢はひそかに屍を穴門の豊浦宮に移し、火を消し、もがりを行った。

応神天皇の謎

継体天皇の謎は応神天皇の謎から発している。応神天皇は日本の歴史が一つの画期を迎えた、そういう時代の天皇であった。正確に言えば日本書紀がそういう設定にしている。たとえば天皇の宮は多くはヤマトの盆地の中に作られたが、応神天皇は大阪平野に作っている。日本書紀や古事記によれば、応神天皇の父の仲哀天皇から継体天皇の息子の清寧天皇に至るまで、天皇の陵墓も、大阪平野に作られるようになったのである。応神天皇といえば、面積で日本第二位、体積に直すと日本最大の規模を誇る5世紀初頭の前方後円墳として知られている。とても人造物には思えないほどの規模で山そのものだ。まずおかしいのは日本書紀には、応神天皇が崩御してのち、応神を埋葬したという記事がない。これは異例中の異例なのである。また応神天皇は九州(西)からヤマト(東)に攻め上がった人物であり、だからこそ、二十世紀になると騎馬民族征服王朝説のヒーローに抜擢された。この人物が、騎馬軍団を率いてヤマトに乗り込んだのだろう。と推測されたのだった。日本書紀には応神天皇の生涯が、どのように記されているのだろう。その文脈を追ってみよう。すべては仲哀天皇の神功天皇の九州熊襲(くまそ)征伐から始まっている。仲哀天皇二年二月のこと(実年代は定かではない。というよりも仲哀天皇も神功皇后も実在しなかった、とする説のほうが根強い。実在したとすれば四世紀半と一般には考えられている。仲哀天皇と神功皇后は角鹿(つぬが)(福井県敦賀市)に行幸し、筍飯宮(気比の宮)を建てた。日本書紀に従えば仲哀天皇は、ヤマトタケル[日本武尊)の第二子で、じんぐうこうごうをめとる以前、大中姫(おおなかつひめ)とむすばれ、かごさかのみことおしくまのみこ(忍熊王)の二人の皇子がいた。かたや神功皇后は開化天皇の祖孫、おきながのすくねのおおきみ(気長宿祢王)の娘で母はかづらきのたかぬかひめ(葛城高額媛)といい、仲哀天皇2年に皇后になったとある。

祟り神応神天皇とそれを祀る宇佐八幡宮

継体天皇の祖先、応神天皇の父母がまず怪しい。父、仲哀天皇は、神功皇后を引き連れて九州の熊襲(隼人]を征討するが、信託を無視したために変死してしまった。そこで神功皇后は夫の喪を伏し、ヤマトにも知らせず、神託どうりに行動し、ついには北部九州のもならず新羅まで平定して九州に戻ってくる。神功皇后は九州で応神天皇を産み落とすが、実をいうとこの御子の父がいったい誰なのか、はっきりしない、、、。そしてこののち、神功皇后は生まれ落ちた応神天皇を引き連れ、ヤマトに向かうが、ここで仲哀天皇の皇子たちが応神天皇のヤマト入りを阻止しようと手ぐすね引いて待っていた。神功皇后は<応神天皇はすでに亡くなりました>とデマを流し<喪船>に応神天皇を乗せ、ヤマトに向けて進む。この<喪船>は幽霊船のイメージで、のちに詳しく述べるように、古代において実際に応神天皇は、祟り神ととらえられていたという気配がある。応神天皇を祀る宇佐八幡系の神社は、奈良時代以降全国に広まり、今では日本一の神社数となって、人々の信仰を集めているが、それは宇佐は祟るとだれもが信じて疑わなかったからだろう。日本の神とは要するに<祟る神>なのである。実際奈良時代に宇佐八幡が重視されたのも、天然痘の流行が深い関係にあったと思うのだが、八幡神がたたる神と考えられ、だからこそ篤く祀られた背景には、応神天皇>という歴史が横たわっていたからこそではないかと思えてならないのである。このように応神天皇を取り巻くストーリー展開は、奇怪な要素に包まれているのである。これを単純に神話と割り切ることも可能だが、何度も言うように日本書紀の編集者が王朝の始祖王、継体天皇の祖を応神天皇ときめたのなら、もっともましなはなしをつくることができたろうに、それをおこたっのはは不可欠極まりないのである。そしてなぜ、祟る応神天皇を継体天皇の祖先のしなければならなかったのか、その明快な理由を求める必要があるのではないか、ということである。もしも、応神天皇が架空の存在ならば、日本書紀の編集者は、わざわざ奇妙な奇天烈な人物を捜索し、そのうえで、天皇家の本当の親=継体天皇の祖先にその応神天皇をあてがったわけで、そうであるならば、それなりの理由がなければおかしい。逆にもし応神天皇が実在の人物ならば、継体天皇の祖先を無理やり応神天皇に結びつけたのではなく、それを認めなければならない理由が日本書紀の編集者にあった、ということになるのではあるまいか。いずれにせよ、我々は継体天皇の祖先=応神天皇という謎にこれまでもあまりに無頓着だったのではなかろうか。