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古事記と日本書紀

国史編纂を命じた天武天皇(在位673~686)の遺志を継ぎ、息子の草壁皇子の妃であった元明天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて舎人(とねり)(天皇、皇族の身の回りの世話をした役人)の稗田阿礼(ひえだのあれ)による口述を筆録、編纂させたのが<古事記>である。天武天皇の意図は古事記に詳しく書いてあるとうり、天皇家の系図や古い伝承を保存することにあった。古事記は正規の漢文ではなくて、漢字を日本語の表音文字として用いているのに対し、八年ほど後、これも女帝である元正天皇(草壁皇子と元明天皇の娘)が舎人親王を総裁にして編纂させた日本書紀は堂々たる漢文で書かれている。これには帰化人も参加したと思われ、多くの編集員ができるだけの材料を集めて書いたものである。日本書紀が漢文で書かれたのはシナ人など外国人に見せても分かるように意図があった。とはいえ、シナの官選の歴史書とおおいに違うのは、第一巻で神代を扱っている点である。前漢の司馬遷は<史記>を書いた時、神話、伝説類を切り捨てる態度で歴史に挑んだ。日本ではわざわざ神代巻を作り、しかも一つの話には多くのバリエーションが伝承されていることを認め、それをもすべて記録している。<一書に曰く>という形で、ある本ではこう書いている、またある本ではこう言っていると、いろいろな部族のそれぞれの伝承を集めて、異説をずらりならべているのである。こんな書き方はほかには例がない。現代から見ても、歴史書としては類がないほど良心的である。日本書紀は明らかにシナの歴史書を意識して作られたものであるが、しかし、素材に対する態度がまるで違っている。この点では日本の立場が確立している。その理由はシナでは王朝が何度も変わってしまっているので、古代の伝承そのものに対して司馬遷自身の愛着がなかったのではないかとも思われる。それに対して日本書紀は研鑽した人々にとっては自分たちの属する王朝の正史である。文字がなかった時代のいろいろな伝承をできるだけ広く集めて編集するしかなかったわけであるが、その範囲内における客観性への意図は十分に表れていると見なければならない。現代においてすら、これほど客観性を重視した歴史書を持たない国はいくらでもある。古事記、日本書紀は先の敗戦まで、日本人の歴史観の根底をなしていた。現代において神話を事実と考える人はいないだろうが、しかし、それを信じた人たちが日本を動かしてきたのだということはしっかり認識しておくべきであろう。いにしえのことをいにしえの目で見ようという姿勢を忘れてはならない。

日本の神様の次なる試練

国学の繁栄は黒船来航による尊王攘夷論のエネルギー源ともなり、毎時威信を成就させる主因の一つともなった。明治の代になるや、<神>は<仏>を圧迫、ついに神仏分離令が発布され、<仏>を仇敵のごとくにくみ、破戒しようとする<廃仏毀釈>が行われて再び<神>は仏教伝来以前の独立した姿を取り戻したのであった。ところが今度はそこへ、Godが入ってくる。明治6年(1873)2月、キリスト教の日本布教禁制が解禁になった。そもそもギリシャでは、多くの神の一つがZeusであったのだが、西欧ではいつしかこの神が最高神となった。日本の室町時代から戦国時代にかけて、やってきた宣教師のザビエルはDeusを当初、<大日>とやくした。太陽、創造主の意味を込めたのであったが、<仏>がすでに大日如来として使っており、混同されては困ると彼は仕方なくデウスとそのまま使った。日本の天正(てんしょう)使節団では<天主>と訳したようだ。中国でもDeusは<天主>であり、時には<上帝>としたようだ。城の天守閣も、もとは天主閣であったという。Godは明らかに、日本の神様とは異なるものであり、<仏>と同様に区別をしっかりとつけて、翻訳すべきであった。ところがヘボン(1815~1911)はGodもDeusも<神>と日本語にしてしまった。この訳こそが、日本史における最大の誤訳だとさえ思える。結果として、勝手の<仏>と同じように、Godと日本の神様が混同され、数々の誤解を受けて今日に至っている。それでも日本の神様は何も抗弁しない。じっと佇んでいるだけである。

江戸時代に誕生した日本の神様

江戸時代に入ると、今度は<神>に儒学(朱子学)の影響がくわえられ、国学(今日風に言えば日本学)の流行によって<神>は再び<仏>と明確に、分離されることとなった。この時期に<神。復権に活躍した人物を一人あげろと言われれば本居宣長(1730~1801)であろう。儒教、その前の仏教以前の日本元来の日本語によって<日本>を明らかにしようとした国学は、契沖(1640~1701)によって方法論が確立され、荷田春満(かだのあずまろ)(神職の家系)(1669~1736)、賀茂真淵(神職の系譜1697~1769)によって、研究対象が絞られ、宣長へ。国学の繁栄は、日本の神様をも救うこととなる。宣長の跡を継いだのが、<宣長没後の門人>と名乗った平田篤胤(1776~1843)といえようか。篤胤は<神>と<仏><儒>の違いを次のように述べている。すべてを神と称(まを)す物は、仏家にいわゆる仏、また儒家にいはゆる聖人などとハイなるものにまし増せば、正しき善神とても、事に触れて怒りたまふ時は世の人を悩まし給う事もあり、邪なる悪神もまれまれには善き所為もあるべし、とにかくに神の御事は彼らの仏菩薩聖賢まどいふものの例を持って配布べからず。(<鬼神新論>)。日本の神様は特別で偉いのだと、彼は宣言したわけだ。平田派の国学が幕末に大いに一世を風靡した。

<神>と<仏>は同じもの!?

<神>の子孫であるはずの天皇が、橙<仏>の弟子となってしまった。天平勝宝元年(749)4月、聖武天皇(第四十五台)は東大寺の廬舎那仏の前で、左大臣、橘諸兄(たちばなのもろえ)に宣命を読み上げさせ、その冒頭で、<三宝の奴(やっこ)として仕え奉る天皇>と言わしめている。退位してのちに出家し、<法皇>を称する天皇も決して少なくはなかった。怨霊を鎮めるのにも<仏>は活躍した。その表れが<権現>である。これは<仏が権(かり)に姿を現したもの>の意味であった。紫式部が活躍した平安中期頃、明らかに日本古来の<神>は時代の中で変質したといってよい。さらに<本地垂迹>が我が物顔で、日本中を席巻した。<本地>とは<仏>の誕生したインドの仏菩薩を言い、それが仮の姿をとって現われたものを<垂迹>といった。つまり、日本の一人一人の本地は、インドの仏教であると、具体的に主張され始めたのである。-ついに日本の<神>は<仏>と反来、同じものだということになってしまった。否、<神道>という枠組みは、仏教(特に密教の理念)を借りてきて中世末期に作られたものであることが、ほどなく明らかになる→自己弁明をしない日本の神様は、仏教に取り込まれたかと思うと、今田はついに生木をはぐように、仏教と切り離される。

世界の神様と日本の神様の違い

また、一方で<神>をまつるー食物を備え、酒を差し出すーことが懸命に行われた。<神>に奉仕する国の長(おさ)は政(まつりごと)を掌(つかさど)るといわれ、ここから政治を<政>というようになった。<神>に奉仕するものは、身を清めるために禊(みそぎ)や<解除(はらえ)<祓除(はらえ)をする。罪=けがれ=外側についた汚れをとらえた日本人は禊(みそぎ)をすればー水に入って洗い流せばーすべてを<水に流せる>と考えた。<解除>(はらえ)=お祓いも同断である。ここで留意しなければならないのは、日本人は<神>と契約関係にはない、ということである。キリスト教のGod,イスラム教のアラー、ギリシャ神話の神々とは、この点が最も違う。日本の<神>は人間の祈り(願うことを持つ)により、奉献(酒食や歌舞)をうける代償として、豊穣と安穏とを与えてくれるだけなのである。それも<神>への意識を持った者にのみ、授けられる。俗にいう、<鰯の頭も信心から>と。神を呼び、<崇め頭を下げる(叩頭(のむ)、またはナム)、両手を合わせて祈る(乞う)-つまりをヲロガム=拝むことにより、<神>は初めて後利益を与えてくれるわけだ。