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エリザベス洋装店のブログ

うまし小浜

兄さんのホデリノミコト(火照命)は、いつも海へ行って、釣りをしていましたから、海幸彦ノミコトと呼ばれ、弟のホオリノミコト(火遠理命)は、山へ行って、狩りをしていましたので、山幸彦ノミコトと呼ばれていました。ある日のことです。山幸彦ノミコトが海幸彦ノミコトに<ねえ、にいさん、きょういちにちだけでよいから、ゆみやとつりばりを取り換えてください、、、。>と頼みました。にいさんのうみさち彦は、仕方なく、<本当にきょう一日だけだぞ、釣り針を取られるなよ。>と念を押して、釣針と弓矢を買えっこしました。山幸彦の尊は大喜び。<うんと魚を釣ってきますよ。>と海へ出かけていきました。ところが慣れない仕事ですから、ちっとも魚がかかりません。そのうちに大切な釣り針を魚にとられて、がっくりと力を落として帰ってきました。にいさんの海幸彦ノ尊にわけをはなしてゆるしをこいました。<えっ釣り針を取られてしまったって、、、。。>と真っ赤になって起こりました。広い海へ落した釣り針はどうして探させましょう。<にいさん、堪忍しておくれ。>山幸彦ノミコトは誤って思案に暮れた挙句。自分の大切な十つかの剣をつぶして、たくさんの釣り針を作って、これを受け取ってもらおうとしましたが、どうしても、元の針を返せと言って、許してくれません。どうにもしょうがなくなって海辺にしょんぼりと立って泣くばかりにしていられました。その時、一人の年寄りの神様が通り合わせて、<大彦様、何をそんなに心配していられますか。私は塩土の神(猿田彦神)じゃ、なんでも遠慮なく言いなさいよ。>と優しく訪ねてくださいました。そして詳しくわけを聞かれると、<お兄さんは燃え盛る炎のように、猛々しい御性分であり、彦様は、お兄さんほどの激しさはないにしても、やはりお勇ましい性分を持って生まれじゃ、このままではお仲直りも難しい・。しばらく、わだずみ(海)の国でご修行なさいませ。私がお導きいたしましょう。>といわれて、ふところからくろぐし(玄櫛)を取り出して、後ろの岡へ投げつけられました。たちまち大きな竹藪ができました。この竹を取って、上手に編み上げて大きな網目のないまなしかたまという、かごのような船を作ってくださいました。、さあおはいり、しばらくいくと、よいながれにのります、金銀の鱗で葺いたような、立派なお宮へ着きますよ。きれいな玉のようなお姫様がお迎えに来ていますよ。いろいろ良い知恵をお授けくださるわだずみの神様もいますよ。>と言ってその船を海の中へ押し放されました。やがて深緑に澄み切った静かなきれいな浜につきました。今まで山の暮らしばかりしていたからでもありましょう。思わず、<うまし小浜。>(ああきれいな浜よ。)とお褒めの叫び声がミコトのお口から洩れて出ました。<この小浜川傘の小浜であったのだと、若狭の人々が言っています。また九州の人は鹿児島だとも言い、それぞれお国自慢の一つにしています。また、若狭の中でも泊浦(とまりうら)だ、大島だと都合の良いように言っています。これは神様のご神徳を、おしたいする人々の心の表れで、決して、とがめることができないと思います。>そしていよいよここでトヨタマヒメ(豊玉姫)という優しいきれいなお姫様と三年の間、仲睦まじくお暮しなさいました。この三年間のご修行は彦神様にとっては大層尊いものであったのです。

アジア史の中のヤマト民族

京都には太秦寺(うずまさ)があり、伊皿井(いさらい)という井戸がある。他、ユダヤ文化が日本に伝えられてる証拠は豊富にある。そして宇佐八幡や丹後の籠神社には大元尊神が祭られており、それはユダヤの神であった。という人がいる。また同じセム族であるアラブの文化も日本列島に伝えられている。こうした問題について考えたい方は<アジア史の中のヤマト民族>(新泉社)などを参照されたい。

金髪で青い目の秦の始皇帝

秦国は戦国時代を生き抜き、BC四世紀には強大な帝国となるが、中国では最も早くから鉄器を使用しており、優良種馬を多数保有していた。この国が強国となった秘密はペルシャから優れた西アジア文化を積極的に導入したからである。ペルシャ人の中には隠れユダヤ人がいたことは確実と思われる。したがって壮大な都を建設し万里の長城を築き、焚書坑儒など漢民族らしからぬ<偉業>を成し遂げた秦の始皇帝についてはユダヤ人説が唱えられており、それを支持する事実もいくつも見られその信憑性はかなり高いのではなかろうか?(以前このブログで、秦の始皇帝は青い目の金髪と書いたのも関連があると思われる。)

秦はネストリウス派の異端的キリスト教の景教

ところで、唐代の中国では、ローマ帝国のことを大秦国と呼んでいるが、黄河の中流の開封にはユダヤ教徒が集団で移住していた証拠があり、長安には景教寺が建てられていた。景教というのは、キリスト教の異端とされたネストリウス派のことであるが、実はユダヤ人たちが偽装改宗してその中に潜入していたと考えられる。その信仰はペルシャ人によって中国に伝えられたものと思われる。それを最初に受入国力の強化を図ったのは春秋時代に中国の西端にbc10世紀ごろに建国した秦国であったに違いない。

日本人とセム族(ユダヤ、アラブ人)の共通点

一方、キリスト教徒に言わせるとセム族とされているユダヤ人とアラブ人は内と外を峻別し、言行不一致であり商売上手であるが信用できないという。そして彼らは集団依存主義者で、長老に従い敵対者には心を許さないともいう。そこで気になることは<日本人の国民性はセム的ではないか>ということである。確かに<穢れを嫌うこと>は日本人とセム族では共通しており、水を浴びて浄化する習慣も同じである。モーゼが建てたユダヤ王国はダビデ王やソロモン王(BC960年~922年ごろ)の時代に大いに栄華を誇っていたが、やがてイスラエルと南のユダヤに分裂し、BC586年に滅ぼされてしまう。以後、イスラエルの12部族は東に逃れたまま世界史から消えたという。その後、パレスティナに復活したユダヤもローマ帝国によって滅ぼされ、古代ヘブライ人の子孫たちはセファラディム(Sephardim)と呼ばれ、いわば正統派であるが、それとは別に途中からユダヤ教に改宗した人たちがありアシュケナジム(Ashkenadim)と呼ばれている。前者はキリスト教徒に圧迫され西ヨーロッパ方面に流浪し差別されることになるが、後者の代表は七世紀にロシア南東部から黒海とカスピ海の間のカフカズ北部で栄えていたハザール(カザール)人である。彼らは東ローマ帝国からはキリスト教(ギリシャ正教を)、サラセン帝国からはイスラム教を奉ずることを求められ、その両方を拒否してユダヤ教の信徒となったという。