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白鳳期、十数寺がたてられた古都、高山 2015/05/26
毎年一月十五日、高山氏の西北約15キロの小都古川町は三寺(さんじ)まいりでにぎわう。親鸞聖人の徳をしのんで町内の三つの寺に参る行事だがお参りする寺の一つに円光寺がある。JR飛騨古川駅から歩いてに三分の中心街、錦鯉が泳ぐ瀬戸川が前を流れ、白壁土蔵の古い街並みが続く。山門を入ると、本堂の右手に長さ1,5メートル余りの大きな位置が見える。近づいてみると中央部分が真ん中にくりぬいてある。最初は手を清める手水鉢かと思ったが水が流れていない。なぜおかれてあるのか、さっぱりわからない。寺の人に聞くと、なんと古代寺院の塔の中心となる礎石だったという。円光寺の東南約2,5キロにある国府町広瀬の塔の腰廃寺の礎石を明治時代初期に移したもので、その大きさから五重塔の土台だったと推定されている。礎石が見つかった広瀬の廃寺跡は、のどかな田園地帯の真ん中で、白鳳期に五重塔がそびえ面影を負うのは難しい。しかし古代の瓦などが出土しており、僧形心はこの地で流刑の日々を送ったのかもしれない。塔の腰廃寺はじめ白鳳期の古代寺院跡は古川、国府の盆地に集中しており、十以上の寺あとが確認されている。限られた場所に、これだけの古代寺院が集中しているのは飛鳥を除くと他に例がないといわれるほどの多さだ。うち古川盆地が半数以上を占める。JR飛騨古川駅の北西2,5キロほどの寿楽寺あとは飛騨の国造(くにつくりのみやっこ)の氏寺だった可能性が強い。出土した瓦は法隆寺の瓦につながる文様を持ち、飛騨最古と推定されている。僧行心がながされたもう一つの有力候補だ。寿楽寺跡から1キロほど西には杉崎廃寺跡も残る。水田の中に金堂の礎石が残り、塔心礎によって、その存在は古くから知られていた。いったいが土地改良事業の対象となり、平成三年から発掘調査が始まった。その結果、金堂や塔など寺の建物の配置などが明らかになっていた。古川町にはほかに沢廃寺、久中(ひさなか)廃寺など数寺が確認されている。

by 6014D | 2015-05-26 16:54 | コメント(0) | 未分類


古代の飛騨には飛鳥と並ぶ仏都があった? 2015/05/26
高山市はもちろん、西側に隣接する国府町、さらにその西の古川町は飛騨にしては広い平坦地が広がる。古代から飛騨の中心地として栄えたところで、高山、国府、古川の三つの盆地には、古代寺院跡が十数か所も発掘されている。古代の飛騨は仏教文化が栄え、飛騨と並び競った一大仏都があったのか?

by 6014D | 2015-05-26 16:36 | コメント(0) | 未分類


日本にもいたベトちゃんドクちゃん 2015/05/19
<日本書紀>によると、難波の世界最大のお墓で知られる仁徳天皇の65年ごろ、飛騨の国には両面すくなという怪物がいた。体は一つだが、顔が前後両面にあり、首筋がない。手と足はそれぞれ4本あり、力持ちで足が速い。左右の腰に剣をさし、四つの手で弓矢を自由に操ったという。八面六臂ならぬ両面四臂の怪物は朝廷側の飛騨の地方長官の命に従わず、人々から略奪することを楽しみとしているというから捨ててはおけない。朝廷は武振熊命(たけふるくまのみこと)を隊長とする討伐軍を飛騨に派遣退治したという。討伐の様子は<日本書紀>には書かれていない。ほかの古書から再現すると、討伐軍は意外に手ごわい相手で両面すくなも手こずった。討伐軍の派遣を知った両面すくなは、部下を引き連れて出羽が平の洞窟を出た。険しい山道を南下して飛騨と美濃の国境近くの高沢山日龍峰寺(にちりゅうぶじ)(岐阜県武儀町)に陣を敷き待ち伏せした。やがて武振熊命の率いる軍が到着、戦いが始まった。ところが宮軍は思ったより強い。両面すくな軍はひとまず出羽が平へ逃げ帰った。飛騨の地名の由来の一つは山の襞からといわれている。乗鞍岳、槍ヶ岳など3000メートル級の高い峰に囲まれた山また山の地である。それに加えて地理に疎い討伐軍は途中で見失った。途方に暮れた武振熊命は途中の中津原という地に祠を立てて祈った。すると祠から白いハトが北へ飛び立っていく。(神のお告げ)と鳩を追って群を進めると、やがて乗鞍岳が目の前にそびえ、手前の山の中腹に大きな洞窟が見えてきた。両面のすくなの本拠地である。征伐軍の到来に覚悟を決めた両面のすくなは洞窟から追って出る。出羽が平血栓が始まった。戦いも終盤になり、最後は両免訴すくなと武振熊の大将同士の一騎打ちとなった。死闘が繰り広げられたが、両面のすく名はついに組み伏せられ、縄をかけられた。(殺すに惜しい男)と武振熊命は降伏をすすめた。しかし両面のすくなは<私の負け、早く首をはねよ>と一喝したという。

by 6014D | 2015-05-19 16:39 | コメント(0) | 未分類


飛騨の古代王は日本武尊か 2015/05/19
昭和26年(1951)夏、<堕落論>などで知られる作家の坂口安吾(1906~55年)が取材のため飛騨に訪れた。坂口安吾は丹生川村日面(ひおもて)にある出羽が平の洞窟<両面窟>に悪戦苦闘してもぐっている。この洞窟は<日本書紀に登場する両面宿儺のいわば本拠地だった。安吾は両面宿儺は日本武尊であるというユニークな説を立てて洞窟を探検した。非常に難解な坂口安吾説を簡単に紹介すると、九州の熊襲を売ったり、東征を行ったヤマトタケルノミコトは、父といわれる景行天皇とは何のつながりもない。飛騨と美濃を根城に全国制覇に乗り出していた豪族をシンボル化した人物であった。その勢力はあまりに強大で、大和朝廷を脅かす存在だった。このため、後世にその存在を伝えることは好ましくないと考えられた。この根拠として<両面の宿儺という飛騨の怪物を退治した>と簡単に記した<日本書紀>をはじめ、古代の支所には飛騨にかんする記述がほとんど出ていないのが逆に怪しい。つまり古代の正史から<飛騨高山の抹殺>が行われていたと説く。さらに、ヤマトタケルノミコトすなわち壬申の乱で殺された大友皇子説へと坂口安吾の論は飛躍していく。審議は別にして、作家らしい鋭い感性で古代史のなぞを推理し、飛騨に古代王朝が栄えたことをほのめかしている。

by 6014D | 2015-05-19 16:05 | コメント(0) | 未分類


両面宿儺は飛騨の古代王かただの怪物か 2015/05/19
<日本書紀>には<仁徳天皇の世、体は一つなのに顔が二つの両面宿儺という怪物が飛騨にあらわれて、人々を苦しめたので征伐した>と記されている。しかしこれは大和朝廷側に立った記録であろう。飛騨各地には両面宿儺を崇拝する数々の伝説がある。それらの意図を手探ると、大和朝廷を脅かすほどの強大な王国、飛騨王朝>の王の存在が浮かんでくる。

by 6014D | 2015-05-19 15:54 | コメント(0) | 未分類



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