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エリザベス洋装店のブログ

なぜ不動明王は恐ろしい姿をしているのか

いろんな明王の中でも一番といえる不動明王がいかなる仏なのか、書いてある本がある。空海の作と伝えられる<かんじょうきょうしゃそうかんそうりゃくげもん>(不動尊功能)がある。まず不動明王の三昧境(さんまいきょう)(一切のぼうねんを離れて静寂の瞑想境に入っている状態)については<火生三昧に住し,障りを焼いて智火となる>と説かれる。不動明王像は、どれも猛烈な火炎に包まれている。この火炎によって、教化の対象であるすべての生ある者たちの煩悩や障害、災難などを焼き尽くして、世界を真理(智火)そのものに変容させるのが不動明王の偉大なる働きなのである。不動法の祈祷でたく護摩の火は不動明王の火生三昧の火に他ならない。祈願者は護摩木に様々な願いを書きつける。それを明王の火生三昧の火に投じて焼くことで、一切の不祥、煩悩は焼き尽くされ、いかなる願いも成就すると信じられているのである。その姿に目を転じると頭頂のししゃけい(毛髪)は悟りに導く七つの要素(七覚支)を表し、左に弁髪をひと戻垂れているのは慈悲を象徴する。額にあるしわは(水波)は地獄界から天界までの六道を輪廻して回る衆生をいかにして救済しようかと常におうねんしていることを示し、左の目をつぶっているのは、衆生が間違った道(左道)に踏み惑うことのないように、左方を覆って、正しい唯一の道(開いた右目)に導くことを表す。上唇をかんで下唇が翻っているのは、慈悲の力を持って魔を恐れしむることを示し、固く口を閉じているのは無駄で意味のない言義論を排することを表す。行者の残した食を食らうのは、迷いの習慣性を食い尽くすことを表し、青黒い肌をしているのは、仏法の敵をちょうふくする姿を象徴している。(一行禅師の大日経ショウでは不動明王は大日如来のぬ僕として下座の行をするという誓いを立てた。そのため、下働きのぬ僕のように肌は焼けて黒く、たくましい筋骨の姿をしているともいう)。右手に持つ智剣は、それによって貧(とん)、じん、痴(ち)、の三毒(代表的な三種の煩悩)を切り捨て滅亡させることを、剣に巻きつく竜は、諸所の外道を滅亡することを表し、左手のロープ(羂索)(けんさく)は、仏の教えに従わないものを縛り付ける働きを表す。また不動像が大きな岩に坐しているのは、衆生の煩悩が動き出さないように、抑え鎮めるためだというのである。行者は不動明王などの真言を唱え、種々の印を結びながら、右の諸相を次々とイメージしていき、不動と自分の一体化を図る。そうして一体となった状態で息災や調伏の法を執することで、不動の利益を人々にもたらすと信じられてきたのである。

不動明王とは大日如来の化身たる明呪の王

日本における不動明王信仰は、弘法大師空海(774~835)が唐から持ち帰った密教とともに広まった。漢訳経典に現れたのはそれより100年ほど前の<不空羂索神変真言教>(ふくうけんじゃくじんぺんしんごんきょう)が最初で、以後徐々に尊格が固まり、空海が請来した時点では、今日の我々が進行する不動明王の形が出来上がっていた。不動明王の<明>は<知識>(ヴィデヤー)の意味だというが、具体的には真言陀羅尼などと呼ばれる呪文のことを指す。つまり明王とは”呪文の王”のことである。密教と明(呪文)は、切っても切れない関係にある。密教層が行う手法は、どんな手法であれ、手に印を結び、口に真言、陀羅尼を唱え、心(意)に本尊を念じながら行う。これを<三密加持>という。この三密加持により、行者の体と言葉と心(身口意)が、仏の体と言葉と心と一つに融合し、行者は本尊そのものとなって、種々の軌跡を実現すると考えられている。このように明は密教の不思議な験力(げんりき)の三本柱の一つなのである。その明の王である明王には孔雀明王や愛染明王など数々の同族があるが、それら明王たちの中でも中心になっている最も重要な明王が不動明王なのである。その本体は密教教主の大日如来といわれるが円満具足した感全体の仏と、猛悪な憤怒(ふんぬ)の形相をした不動明王とでは、その姿があまりにも異なっている。そのわけは、不動明王が大日如来の<教令輪身>(きょうりゅうりんじん)だからである。教令輪身とは、ほとけがそのはたらきをあらわすためにとるとされる変化身の一つで、心理そのものの姿である如来に接しても悟りに向かおうとせず、柔和で穏やかな菩薩の教えに接しても心理を学ぼうとしない頑固で頑迷で煩悩まみれの衆生を圧倒的な威力によって教化(きょうげ)、善導するときの姿のことを言う。あらゆる明王はこの教令輪身としての大日如来なのである。

不動明王に想うby田中昭三

中国、蘇州の大学で日本語を習っている学生から、こんな質問を受けた。<日本語にはどんな時に<お>をつけるのですか>彼女はいくつかの例を挙げた。お米、おまんじゅう、お菓子、お人形。日頃無意識に使っている母国語について説明を求められると、きちんとした説明ができない。ましてやまだ語彙が不十分な外国人には、至難の技といっていい。名詞につける丁寧語です、と言おうとしたが<どうぞ、おかけください>と動詞にもつけるではないか、ととっさの思い付きを引っ込めた。たかが<お>一言だが、どうやら奥は深いようだ。<お>をつけることによって。その言葉の元のイメージがふんわりとしてしまう。いったいだれがそんな語法をはっけんしたのか。ときどきこのもんだいをかんがえていると、これは結構私たち日本人の精神活動にまで影響を及ぼしているのではないか、とまで思うようになった。その例が<お不動さん>である。不動明王とは一体どんな仏様か、一言で定義づけることは難しいが、本来怖い仏であったことは間違いない。確かに右手に剣、左手に索を持って、大きく目を見開き口元をきりっとひきしめた姿は、泣く子も黙る、という言葉にふさわしい表情である。不動明王は、インドや中国ではあまり深く信仰されず、空海が日本に伝えて以来、急速に広がったという。日本の仏教を独自の視点でとらえなおそうとしている哲学者の梅原猛さんは、不動明王をディオニソス的精神と位置付けた。それはニーチェが人間の精神をアポロ的精神とディオニソス的精神に二分した論法を借用したものだ。要約すれば、残者は冷静な精神、後者は熱狂の精神で、如来と菩薩は前者に属し、不動明王が後者の代表という。確かに不動明王の原点にはディオニソス的精神が宿っているといえよう。しかし、この島国の人々が不動明王の中に見出したものは、ディオニソス的精神とは少し位相が異なるのではないかという気がしてならない。というのも、空海が請来した不動明王はこの国では<お不動さん>に変身することにより、広く庶民の間に浸透したのではないかと思うからである。これはわたしのひろんりてきなせつであるが、わたしは日本人の信仰心には、やさしさと忍耐力があるのではないかと思うからである。優しさとは悪を許すということだ。忍耐力とは現実の悲を受け入れるということだ。両者に共通することとは、今、ここでの救いよりも、別の次元(仮に”極楽浄土”とか”あの世”と言ってもいい)での救いを求めている点である。本来の不動明王は、やさしさと忍耐心にはそぐわない。そこで変身したのが<お不動さん>ではなかろうか。言い換えれば、日本の庶民は怖い不動明王をやさしいお不動さんに変えることにより、自分たちを救ってくれる全く新しい仏を作り出してしまったので。恐るべきは<お>の一文字である。そういえば万事休すした時に私たちは<お>を連発している。<お助けください><お許しください>私たちの先祖が発見した<お>の効力は、今の宗教人にどのように受け止められているのだろうか。どうか、お教えください。

クズ

クズはマメ科のつる性の多年草。山や野原、道端に生えています。夏にフジの花に似た紅紫色の蝶のような形の花を咲かせます。料理に用いられるくず粉は、この植物の根からとります。クズの根は、漢方では葛根といい、風邪薬として有名な葛根湯の主原料です。秋から冬に彫り、水洗いして皮をむき、サイコロ状化板状に切って、天日に干して乾燥させます。花は夏に摘み取り、日陰で乾燥させます。花は特にアルコールを処理する能力を高めます。お酒を飲む前後に乾燥させた花を粉にして茶さじ一杯飲めば、二日酔いが楽になります。クズの花を取り、一リットルの容器に半分ほど入れ、砂糖500グラムと水を花がつかる程度に入れて、時々かき混ぜながら置くと、2~3か月でおいしいクズ酒ができます。ろかしてれいぞうこでほぞんすればいちねんいじょうもちます。

スイカズラ

歯周炎や口内炎は葉や花の煎じ汁でうがいをするといい。スイカズラはスイカズラ科の常緑多年草で、山谷野原、道端に生えています。夏に、良い香りの白か薄紅色の花をつけて、のちに黄色くなります。花を抜いて口に含むと甘い蜜があり、子供がよく吸うことからこの名が付きました。夏から秋にかけて、満開を少し過ぎ、黄色くなりかけたころに花を積みます。葉は、花が開いてから散るまでの間にとります。花、葉とともに、水洗いしてから陰干しし、よく乾燥させて使います。乾燥させた花か葉30グラムを、水600に入れて煎じます。これを一日分として、数回に分けて飲みます。解毒作用が強いので、特に化膿症に良く聴き、浄血作用や利尿作用などもあり、風邪、冷え症、湿しんなどにも効果があります。花で作るお酒は、老化防止に効果があります。乾燥させた花を日本酒に入れて火にかけ、一か月ほどおいてから飲みます。