アソビねっブログ

1966年のヒット曲の秘密2、 2016/05/19
<ドライブマイカー>と一緒に<ノルウェーの森>を収めたep版(四曲入り500円のエクステンデットプレイ>を手にしたのは、もうしばらくしてからのことである。<ノルウェーの森>!あの全然インド的でないシタールの音は、例とシックスティーズヘ向けて、ほんのわずかにほころびかけていた<フラワー>のつぼみのようだ。ローリングストーンズが<黒く塗れ!>で今度は激しいビートにシタールを乗せた。本をめくると、ジョージがラビシャンカールにシタールを習いにインドへ出向いたのはその年の10月とある。11月にはもうジョンとヨーコが出会っている。アメリカでも、サンフランシスコ周辺で、グレートフルデットだとか、ヘルスエンジェルスとか、すでに相当ざわつき始めていたころだ。ただ僕の中で時は、ほんのわずかにカタカタ震えだしたという感じだった。1966年。つい目を細めてしまうほどのまぶしさだけれど、そのまぶしさは、どこまでも清楚である。SUNSHAINE CAME SOFTLY THROUGH My WINDOWTODAY エレキギターで登場したドノバンの<サンシャインスーパーマン>がその秋の僕のテーマ曲だった。前田武彦、木本教子の<東京ヒットパレード>でトップを快走した<バスストップ>のたった一か所聞き取れたフレーズを何百回口ずさんだことだろう。それから時は<グッドバイブレーション>を通って1967年になだれ込んでいく。そのあたり、いつだったか忘れてしまったが、街で見つけた輸入物の薄い雑誌のファンジンに、インドでうつったビートルズの写真が載っていた。マハリシヨギのがいてドノバンも、それに確かにマリアンヌフェイスフルもいて光り輝く光あふれる緑の背景が焼付くほどに印象的だった。それからほんのちょっとで閃光がさく裂したようになる。現職が渦を巻いてギターの音がめらめらと燃え上がった夏が、そのすぐ向こう側にある。ジェファーソンエアプレインの<サムバディツウラブ>から一気にドアーズ、とクリームとジミヘンドリックス&エクスペリエンスに行ってしまうあのちょっとうっとりするような混沌への号砲が打ち鳴らされる三秒前。土岐はきゅんと引き締まり、手の中にとらえた水鳥のように古る古ると震えている。

by 6014D | 2016-05-19 17:39 | コメント(0) | 未分類


1966年のヒット曲の秘密1、 2016/05/19
1966年は僕にとっては大変なすごい年だった。BEATLESの初来日としての武道館のコンサートはもちろん、グループサウンズが世の中を謳歌する直前であり、東京オリンピックが終わって2年後、そして3年後には大阪万博があり、世の中がガラッと変化する兆しがとても奇妙で面白い文化があふれ出すすごいとしか言いようのない一年だった。この僕のつたない気持ちを代弁してくれる見つけたので文章を少々長いけど、佐藤良明さんの<ラバーソウルの弾み方>から写します。<ハローポップス、1966>実家の押し入れから、とんでもないものが出てきた。それは僕の中学時代の時のノートで、最後のページに色鉛筆で折れ線グラフが書いてある。横軸は日付で、1月10日の月曜日から二週間と三日続き、26日の水曜日でぷっつり切れている。そして変色しかかったそれぞれの折れ線には、こんな名前がついている。<そよ風に乗って>、<恋を抱きしめよう>、<デイトリッパー>、<ユーアンドミー>、<涙のシャンソン日記>、<バーバラアン>、<オーバーアンドオーバー>。アーティストの名を今でもよどみなくいえるところが、なんともおかしい。これが何かというと<ハローポップス>で8時5分くらいになると始まった、今日のベスト5の記録なのである。1966年1月。ほかのヒットパレード(特に、なぜかいつも映画音楽が上位に入っていたりするやつ)では、また、<ヘルプ>からの、例えば<ザ、ナイトビフォー>なんかがトップ20から落ち切っていなかったはずだから、<恋を抱きしめよう>、<デイトリッパー>というのはさすが電リク番組ならではという速さだ。一日だけ<ドライブマイカー>がぽつんと第一位になっている日がある。<ラバーソウル>のA面最初の曲。そういえば思い出した。<車>に関する歌のリクエスト特集をやったことがあった。その時はそれほどめちゃくちゃのビートルズ少年でなかった僕はシングルカットされていないこの曲にその日初めて接したことになる。<ミッシェル>や<ガール>はどうだっただろう。それまでに聞いたことがあったかどうか、記憶にない。とにかくこのあたりだ。2月のサンレモ音楽祭から出てきたウイルマゴイクの<花のささやき>とか、シャングリラスといった根暗の女性グループが歌う<アイキャンゴーホームアニーモア>とか。ぺトラクラークの<マイラブ>、シュープリームス<マイワールドイズエンプティウイズアウトユー><卒業>で再ヒットする前のオリジナル<サウンドオブサイレンス>。まだまだあるクロードチアリの<夜霧のしのび逢い>、ニニロッソ<夜空のトランペット>。街角にはヤコペッティ映画の看板が出ていたかもしれない。それにゴールドフィンガー、荒野の用心棒、殺しのライセンス。

by 6014D | 2016-05-19 16:59 | コメント(0) | 未分類


古事記に出てくる猿田彦と部子山 2016/05/17
古事記のクライマックスは、大国主命による国譲りとそのあとに続く天孫降臨であるが、この二つの場面は高天原の神である天津神と葦原中国の神である国つ神との対立と融合を主要モチーフにしている。国譲りの場面では、国づくりに励んできた大国主命が天孫に葦原中国を明け渡し、天孫降臨の場面では猿田彦神が道案内をして葦原中国の日向の高千穂に降り立つ。この二つの場面では新たに葦原中国に入ってきた天孫族と先住土着の一族が花火を散らし、対立と戦闘を含みつつも両者は妥結点を見出す。さて、猿田彦はこの天孫降臨に際して、天の分かれ道である天の八街(やちまた)にいて、うえは高天原を照らし、下は葦原中国を照らしていた。この天上天下を照らす猿田彦に太陽神の古い面影を見出すことができる。というのも、天の岩屋戸の前で胸乳と女陰(ほと)をあらわにして神がかりになり、日の神天照大神を呼び戻すことに成功したアメノウズメノミコトは、この猿田彦の神の前でも胸乳と女陰を露顕し、猿田彦神を<顕>(表し)、その神の名を負い持ち、子孫を猿女君(さるめのきみ)と呼ぶようになったという経緯があるからだ。そして、そのことから、太陽神を呼び出す呪力を持つアメノウズメは、天照大神よりも、むしろ古くは猿田彦神と深い関係を持っていたと推測できるからだ。<日本書紀>では、猿田彦神はアメノウズメに向かって<我を発顕(あらわ)しつるものは汝なり>という。つまるところそれはアメノウズメが猿田彦を呼び出し<発顕>し、祭る呪術の能力を持っていたということではないか。律令体制確立期に記紀神話としてまとめられている神々の物語の中でも、猿田彦伝承は何段にも屈折し、変容して記紀神話に収められたような形に改編されて来たのではないか。そこに古い時代の神の姿を見てとり、いくらかなりと、この幻像を復元することは可能ではないか。自分の母親の実家が宮崎県出身であり10年ほど前、佐佳伎神社のお祭りに町内で神輿の前を猿田彦のお面をかぶって先導したことがあるので、この謎の深い神は身近に感じてならない。そして道開きの神として継体天皇の4番目の奥さんの目子の媛を足羽川の源流である部子山へ連れてった猿田彦神に導かれるように昨年僕を10回近くその部子山に向かわせたのも不思議な因縁を感じさせる。

by 6014D | 2016-05-17 17:02 | コメント(0) | 未分類


織田信長が唯一恐れた神4、by不二竜男 2016/05/12
<斉藤道三以来、美濃は齋藤氏が支配してきました。その道三の孫の斉藤龍興(たつおき)が当主として美濃を治めていた。永禄10年(1567)8月、信長公が美濃攻略の兵を起こし、齋藤氏の拠点である稲葉山城を奪取しました。その後、信長公は拠点を尾張の清州から稲葉山城に移し城下町の井ノ口を義父に攻めるのですが、この合戦の前に、各務原の地も攻略し、数々の寺社を焼いているのです。その際手力雄神社も火をかけられそうになりました。ところがその時どこからともなく一陣の風が吹いたかと思うと、たちまち織田軍の目がくらみ、金縛りにあったように手足の自由が聞かなくなったといいます。そこで信長公は神威を畏み、手力雄の神に不敬を詫びて戦勝を祈願したところ、軍勢は精気を取り戻し信長公は神の冥助(みょうじょ)のもと岐阜城(稲葉山城)を落としたという話が当初に伝わっています。

by 6014D | 2016-05-12 17:51 | コメント(0) | 未分類


織田信長が唯一恐れた神3、by不二龍男 2016/05/12
信長の天下統一は、駿河(するが)、遠江(とおうみ)、三河(みかわ)、の三国(静岡県と愛知県中、東部)と尾張(愛知県西部)の一部を支配していた東海の覇者、今川義元を倒して東海地方を固めることから始まり、上洛ルートの障害にあたる美濃(岐阜)を奪い取って、東海から畿内に至るルートを支配下におさめるという形で進められた。この美濃攻略の際、信長が戦勝祈願をして神の冥護を得たという神社が各務原市(科神加原氏)にあり、今でもスポーツ界など勝負にかかわる競技団体や個人の信仰を集めているパワースポットがあると聞いて取材に出かけた。各務原市は岐阜県の南部、県庁所在地である岐阜市の東南に位置する。昭和38年に那加(なか)、稲羽、鵜沼,蘇原の四町が合併して市制がせこうされたが、このうちの那加手力町(なかてちからちょう)に、その神社はあった。社名を手力雄(てち”からお)神社という。この神社と信長の関係とは、いかなるものなのか。話を宮司の浅野義一氏に伺った。浅野家は清和源氏を源流とする土岐(とき)氏の支流で、手力雄神社の社家としての歴史は、記録に残っているだけでも丈安2年(1445)にまでさかのぼる。義一氏は16代宮司だという。その浅野宮司が語る。

by 6014D | 2016-05-12 17:19 | コメント(0) | 未分類



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