都こんぶとわたしby佐藤良明1、
<時代研究>をうたったとたんに、方法論が問題になる。科学であるなら、観察によって得たデーターからスタートする以外にない。ところが僕たちが相手にしようとしている<時>というやつは、僕らの生を無意識から全部丸ごと引っさらって流れる一本の流れなのだ。流れの中にあって初めて、時は時たりえる。10年なら10年という単位で切り出してしまったならもう、時でなくなってしまうのだ。<時代>という容れものの中にくくられ、歴史家のハードな視線で見固められる<時>というのは、死後硬直に中にある。<60年代>と聞いてたちまちあらわれるイメージ群も、進みゆく<時>からぽろぽろ零れ落ちた時の残骸にすぎないのである。<時>の科学で何より重要なのは、それぞれの時代特有の風物を脱ぎ捨てながら生き続けていく一個の巨大な進化体をとらえることだ。>60年代>は<80年代>とどのように一つなのか。<60年代>は<80年代>にどんなバトンを渡してきたのか。問題は<つながり>である。<脈>である。時は集合的な生の脈動、そのリズムだ。空間的、視覚的ではなく、むしろ音楽的な存在なのである。