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エリザベス洋装店のブログ

都こんぶとわたしby佐藤良明1、

<時代研究>をうたったとたんに、方法論が問題になる。科学であるなら、観察によって得たデーターからスタートする以外にない。ところが僕たちが相手にしようとしている<時>というやつは、僕らの生を無意識から全部丸ごと引っさらって流れる一本の流れなのだ。流れの中にあって初めて、時は時たりえる。10年なら10年という単位で切り出してしまったならもう、時でなくなってしまうのだ。<時代>という容れものの中にくくられ、歴史家のハードな視線で見固められる<時>というのは、死後硬直に中にある。<60年代>と聞いてたちまちあらわれるイメージ群も、進みゆく<時>からぽろぽろ零れ落ちた時の残骸にすぎないのである。<時>の科学で何より重要なのは、それぞれの時代特有の風物を脱ぎ捨てながら生き続けていく一個の巨大な進化体をとらえることだ。>60年代>は<80年代>とどのように一つなのか。<60年代>は<80年代>にどんなバトンを渡してきたのか。問題は<つながり>である。<脈>である。時は集合的な生の脈動、そのリズムだ。空間的、視覚的ではなく、むしろ音楽的な存在なのである。

時代研究宣言by佐藤良明2、

<ファンタジー>といっても、これは個人的なものではないし、<80年代>になってからは、単に<世代的>なものでもなくなったみたいである。ビデオとCDに支えられた新しい<通時代的>コミュニケーション空間の中で、それぞれのロックスターが表徴する<気分>には<間世代的>な通貨性ができている。マークボランの表す世界は、1972年のディスコテック(あのころはまだゴーゴー喫茶だったか)で、<ゲットイットオン>を踊った心より、ライナーノーツでまず彼の死にざまを読み、それから電車の中のウオークマンで目を閉じてじっと聞き入っているいまどきの18歳の心の中でのほうが、研ぎ澄まされていることだろう。<80年代>、様々な時代たちが、僕たちの日常に入り込んでいる。ビアガーデンには<コニーフランシスとデルシャノンの>アーリーシックスティーズ。それぞれの時代がムードメーカーとして、または(包装紙やトレードマークに代わる)イメージメーカーとして商業的な機能を果たしている。音楽の消費も、ただジャンル別というのではなくて、それに時代別が掛け合わされた縦横両軸の区分の中でやられるようになった。<ねえ、音楽何にする?><ハードなんがいいかな><ジミヘンあるわよ><やだあ、朝っぱらから危ない時代しないでよね>と、まあこんな風に、いま精神の共和国は、<時代>を一つに軸にして回転しているのだ。(80年代)からさかのぼること、少なくとも四つくらいのディケードの名前は、(そしてそれぞれをアーリー、ミッド、レイトと三分したものまでが)、それ独自の<サウンド>と(映像)と(グッズ)と、時によっては(生き方)までを表す言葉になっている。<時代>は、これまでに僕らの思いに領土を広げているというのに、ではいったいそれは何かと改めて問い返してみると、これが全然定かでない。この観念は、科学的というには程遠い、というか、科学的思考にふたをする劣悪なブラックボックスになってしまいがちである。<そういうじだいだったのさ。>このひとことが、すべてをいんぺいしてしまうのだ。そういうじだいって、どういうじだいだったのさ。=<時代研究>は、そこのところを押し開く知の営為である。

時代研究宣言by佐藤良明1、

今のは多分、一つの世代全体が通り抜けて行った、共通一次みたいな物語のワンバージョンである。語り古されたすれっからしの物語、というか、もう今では、戦争を知っているお父さんたちが酒を飲むとよく歌った軍歌みたいにカフェバーかどこかで<60年代>にちょっと遅れてきたギャルたち相手にくどくど話される全然さわやかではない物語に一部に収まっている。でも、ちょっといいだろうか。60年代の何を僕らは知っているというのだろう。お父さんたちは、戦争の何を知っていたというのだろう。<時代>という言葉は、それ以上立ち入って考えることはやめようということのサインとして使われている。<時代がね、輝いていたんだ>-そう語る時の僕らの顔と言ったら、<時代がああだったんだ>と言って徳利を傾けていたお父さんたちの顔に負けないくらい澄み切っている。知ることを放棄した安らぎ。それ自体、悪いとは言わない。でも弘田三枝子やジェリー藤尾があんなに素晴らしくやってくれることを、たどたどしく活字を並べてやろうとは、ぼくは思わない。初めに宣言しておこう。これは時代にしたる本ではない。時代をきちんと<知る>ための本である。なんなら<時代研究ことあげ>と副題をつけてもいい。ひところ<地域研究>という学問が、<学際性>という言葉とともに脚光を浴びた。アメリカと日本とでは、制度においても意識においても、様々な面で目に見える違いがある。<あの人は、やっぱりアメリカ人だ>という思いは、多くの場合、やっぱりどうしようもなくリアルだ。そうした現実が消えない限り<地域研究>は有効な知のフィールドとして機能し続けるだろう。でも、例えば<サージェントペパーズ>で、がたがた震えた、一国の人口にも匹敵する数の人間が、国境を越えての一つの<思いのフィールド>を形成しているという事実がある。そしてそのリアルさは、高まる一方みたいなのだ。たとえばあるビールメーカーが30代の男をターゲットに、新製品を売り出そうとする。誰をモデルに使うべきか。リンゴスター?清純すぎる。サミーデービスジュニア?軽快すぎる。もっと<渋さ>が出る人。ボブディランでは余計な含蓄が強すぎるし、ブルーススプリングスティーンだとがんちくがなさすぎる。人生の刻みたいなのが刻み込まれている仕事師。この筋に沿った思考はおそらくエリッククラプトンあたりを答えとして射止めることだろう。そして重要なのはこの理論がそれぞれのアーティストの<現実>というよりは、ファンの心に起こる<幻想><味わい><気分>といったファンタジーに根差しているということだ。

織田信長が唯一恐れた神9、by不二龍彦

信長は、その各務原を手力雄神社に授けた。想像をたくましくすれば、この寄進によって、信長が、天下統一の足掛かりをつかんだのではないかとも考えられる。実際、信長が<天下布武>の印章を使い始めたのは、美濃を攻略して井ノ口を岐阜と改称し、居城を岐阜に移して以降なのだ。ところで、手力雄神社と信長の関係については、もう一つの謎の伝説がある。信長が岐阜を手中にした後のこととして、郷土の伝説集はこう伝える。<何か悪魔でもついたのか突然起こる心の狂いか、ある日のこともったいなくも銃先を手力雄神社に向け<この神あらば答えよ>と一発放たれた。その弾丸はいずこへ抜けたかは知れぬが、確かに堂に入って手ごたえがあった>自分が崇敬する神社の内陣に向けて発砲するというのは、あまりにも不吉な行いで、一伝説にすぎないとはいえ、天下統一の覇業の途中で、倒れた信長の運命を暗示するもののようにも思える。ともあれ、浅野宮司によれば、美濃攻略においては信長を戦勝に導いたように、手力雄神社には戦勝のパワーがあるというので、今も競技者など勝負にかける人たちの参詣が絶えないという。おかげをこうむって勝つことができたという報告も多数寄せられているという話を、数々の実例とともに聞かせていただいた。そういえば手力雄神社をパワースポットにしている主山の形は、筆者の目には、鐘や鍋釜の底に似た金龍形のやや崩れた形に見えた。この形の主山は、五行の風水論では、武威や権勢をもたらすとみる。まさに信長にふさわしい龍脈だ。そんなことを思いながら宮司のご厚意でご神前に榊を献じ、こうしてもう出させていただいたことへの報謝の祈りをささげたのであった。

織田信長が唯一恐れた神8、by不二龍彦

手力雄神社の裏山の古墳は、単独で設けられたものではない。同社のある那加手力町から、那加石山町、那加長塚町にわたる地域には、山日向古墳群が広がっている。この古墳群に属する古墳は16基確認されており、そのうちの4基が現存する。手力雄神社の2基は、そのうちの2基なのだ。してみると、各務原の古墳群は、祭祀場であるとともに、陰宅風水の地でもあったということだ。風水には、生きているものの家を見るための<陽宅風水>と、死者を葬るための地を観る<陰宅風水>がある。日本ではもっぱら前者が主流になっているが、中国では元来、陰宅風水が主流だった。というのも、父母や先祖の墓所を風水の吉地に葬ることこそが、子孫繁栄の根幹であると考えられたからである。手力雄神社の一帯は、古代においては、まさしくそうした陰宅風水であると同時に、祖霊、祖神の鎮まる聖なる山、聖なる祭祀場だったのだろう。であればこそ同社は近隣8カ村の総鎮守の産土神として、今日に至るまで尊崇されてきたのである。ところで、先にも引いた浅野平部の<当社言伝書>には、不思議な記述が出てくる。美濃国の手力雄神社は、信州(長野)戸隠山の戸隠大明神を勧請したというのだ。戸隠神社は、奥社、九頭流社、中社、宝光社、日之御子社の五社からなり、全社の主祭神は、奥社の手力男命となっている。同社の縁起によれば、タジカラオはアマテラス大神を引き出した後、岩戸を放り投げた。それが地に落ちて出てきたのが戸隠山だという。その縁でタジカラオが祀られているのだが、その、タジカラオより古くから鎮座していたとされているのが九頭龍権現で、この竜神が戸隠山の地主神だとされている。九頭龍伝説は日本各地の古社に伝えられている。戸隠と並んで有名なのは箱根山の九頭龍だが、どの地の九頭龍も、かっては人民を苦しめる毒龍だったものが、高僧の調伏(ちょうふく)にあって仏法守護の善龍と化したと伝えられる。九頭龍は山を本拠とする水神(河神)の一種で、里に恵みをもたらすとともに、洪水という大いなる災いももたらすとともに昔から、いずれの地でも手厚く祭祀され、畏怖されてきた。手力雄神社の手力雄神は、この龍神とも深く習合していたようで、本殿軒の左右には梁に絡みつく巨大な龍の彫刻があり、市の重要文化財に指定されています。九頭龍としての手力雄神が勧請されたのは中世以降であることは間違いないが、この地がもともと風水上の龍穴であった因縁から言えば、九頭龍は勧請されるべくして勧請されたとも考えられる。山から下ってくる陰龍のエネルギーラインと、川の流れに乗ってやってくる陽龍のエネルギーラインが大きく交わっている地点、それが各務原のこの地なのである。