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エリザベス洋装店のブログ

東京ブギウギと鈴木大拙

1966年7月12日未明、95歳の鈴木大拙<貞太郎1870~1966)は臨終のとこにいた。大拙は前日に急な腹痛を起こして、北鎌倉の東慶寺の裏山にある、居所を兼ねた松が岡文庫から築地の聖路加病院に、寝台タクシーで運び込まれた、仏数学者にして文化勲章受章者は、日本の禅を世界に広めて<人類の教師>とも呼ばれた碩学が、最後の時を迎えようとしていた。大拙の甥の長女にあたる林田久美野(旧姓、鈴木1918~2011)は、<大叔父、鈴木大拙からの手紙>(1995、以後<大叔父>にその時のことを克明に期している。緊急入院した大拙の周りには呼吸を助けるための酸素テントが惹かれていた。主治医は、のちに百歳の現役医師として有名になる日野原重明(1911~)だった。大拙は時々目を開いては何かを見ようとしているかのようだった。急を聞いて駆け付けた見舞いの客の中に、西洋人風の面立ちの整った熟年男性がいた。大拙の養子、アランこと鈴木勝(まさる)(1916ごろ~1971)である。それは久しぶりの父子の対面だった。アランはかがみ見込んで、酸素テントの外から大拙に顔を近づけた。大拙の秘書の岡村美穂子(1935~)が呼び掛けた。アランは無名の人ではなかった。戦後を代表する歌謡曲<東京ブギウギ>(1947)を作詞し、<スウィングの女王>と呼ばれた歌手の池真理子(1917~2000)とかって結婚していた。ところが一時代を代表する歌を世に出したにもかかわらず、アランの記録は少ない。大拙にアランという養子がいたことについて、多くを語る人もいない。大拙の周囲にいる者にとって、アランは触れたくない存在になっていた。アランのことを<不肖の息子>と呼ぶ人もいた。それには理由があった。アランは分別盛りのはずの40台に、週刊誌沙汰になる事件の主役になってしまったのだ。大人になってから、アランの多彩な面が素晴らしく発揮され、優雅で自由な人となった。アランが父親である鈴木先生を尊敬し、大事にしていたのに対し、鈴木先生はアランに対し閉鎖的な立場をとったのは事実です。それはじつにざんねんなことです。というのはせんせいがじぶんの息子から<謙遜>の教訓を学びえたかもしれません。

憑き物持ち迷信 その歴史的考察by柳田國男

憑き物持ち家筋の系列は、日本全土の四分の三の区域に及んでいることであり、各地の憑き物持ちの性格が、ほとんど一致した類似点を持っていることである。例えば、憑き物の狐の常は、常に七十五匹連れ出歩くということや、キツネといっても猫に近いものであったり、また、くだキツネというのは、管の中をくぐる小さなキツネで、動物学的に言えばむしろイタチに近いものであることなど、おそらく、これらの俗信を百年ないし百五十年もさかのぼってみれば、もっと多くの類似があったことと物語るものであるといえよう。この、憑き物持ちの全国的類似のほかに、さらに強調したいことは、社会的害悪を残している点では、山陰地方が一番ひどいということである。これは山陰地方幡多地方に比べて、文明に浴する機会に乏しく、文化の進展が遅れたためであり、そのため他地方では、すでにお茶飲み話となっているのになおかつ、山陰には、根強く残存しているのである。すでに消滅してしまった<憑き物>の例を拾ってみると足利時代の中期から、戦国時代にかけて、京都から江戸時代に、公然と、いづなの進行が広まっていたもののように見受けられる。例えば、応仁の乱の原因は細川勝元がいづなを信じ妻をめとらなかったために、後継者を得ることができず、そのために騒乱が起きたと応仁記にある。また武田信玄の仇的上杉輝虎(謙信)も、いづなを信じて独身を保っていたと古記録にみえることからかんがえてもいづなの信仰が当時、如付に根強かったかを物語るものと考えよう。こんにちのこっている、いづな山というのは、いづなを祀ったもので、関東から奥羽にかけては、かくちにいづな権現がある。ところで、このいづな信仰は関東以北乃地方では、今日、いくら探しても見当たらぬほどその影は薄く、たまにあったとしても当事者がみづからが不思議がっている程度であるのに、反して、山陰地方にはなぜキツネ持ちや犬神持ちなどの特定の家筋が根強くのこっているかということは、たんにいちちほうのもんだいではなく、にほんぶんかを研究する者にとっても、また大きな問題であるといわねばならない。

男がエロスを感じるとき<阿片茶>byビアンカタム

1920年、イタリアの富裕な貴族ペリッティ伯爵家の令嬢として生まれたビアンカは、ムソリーニが台頭する時代に何不自由なく育てられ、やがて美貌の少女として社交界にデビューする。そして十六歳の夏、あるパーティでイタリアの陸軍士官学校に留学していた中国人青年タムジャンチャウに紹介される。彼らは、互いを一目見るなり、恋に落ち、周囲の反対を押し切って二か月後には結婚してしまうのだ。タム少佐との新婚生活には、彼がビアンカのために作ってくれた<禁断の飲み物>阿片茶がもたらす快楽と同じ味わいがあった。そして彼女は<どんな不慮の事態が訪れようとも、二人を切り離すことはできないと>言う確信を持つ。しかし、運命は彼女の核心を裏切る。際限のない快楽に満ちた三年をイタリアで過ごした後、その生活の果実である子供たちとともに、ビアンカはタムの故郷中国にわたる。だが、そこで彼女を待っていたのは、阿片の栽培によって巨富を気づきあげた、しかしきわめて封鎖的なタムの一族だった。そしてタムもまた国民党軍の精鋭将校としての地位を得つつ、伝統的な中国男の相貌をあらわにする。つまり平然と愛人を作ったのだ。ビアンカはそれに耐えられず、危険な道程をも顧みずに、奥地から上海に戻り、そこで子供たちを養うために美貌と知能を生かした職業、高級娼婦と日本軍のスパイを兼務するという立場に自分を追い込んでしまう。戦後そのために、彼女は国民党から死刑を宣告されるのである。風前のともしびとなった彼女の運命やいかに。もちろん回顧録を書くぐらいだから、彼女は助かったーヨーロッパに戻ってからクリスチャンディオールの有能な助手として活躍したりしているーのだが、それにしても手に汗握るすごい生涯だ。文章も簡潔で、それでいて心地よい気取りがあり、それはちょうど衝動的なのに優雅な、わがままなのに毅然とした意思のある彼女にぴったりの文体である。阿片そのものに酔うことはできない相談だが、この本を読んで陶然とすることは法律違反ではない。

アニマの香り by 鏡リュウジ

星が定めた運命なるものが文字道りに存在するかどうかなど、だれにも断言はできまい。それは<魂>や<心>もおなじである。どうあがいたって、たましいやこころなどぴんせっとでつまみあげたり、なわで縛って捕まえることなどできるはずもないのだから、魂や心の実在性を強弁するのは無謀というものだろう。<占星術><心理学>を看板に掲げておきながら、こんなことを平気で口にするので、いい加減な奴とおしかりを受けることが少なからずあるのだが、しかし、ホロスコープで運命が予言できるとか、魂が輪廻転生しているなどと信じることなどできない身の上なのだから、仕方がないではないか。けれど、かといって、がりがりの懐疑主義者のように、星の示す運命の啓示や否定しようにも誰の中にもあるこの不思議な<魂>の存在の感覚までも、錯覚として亡き者にすることもできそうもない。運命、魂、星,精霊。夢、、聖なるもの。こうした形になりづらい微細なものは、確かに、僕のそばに、いや、僕たち自身を包み込んでいて、力強くその存在感を訴えかけてきているからだ。これを読んでいるあなたなら、きっとその感覚はご理解いただけると思う。<ある>と<ない>のあわい。盲信と否定のはんろ。夢と現実のはざま。それ自体は、決して特別なものでもなんでもない。誰しもが一度はおとづれたり、あるいはそこらに滞在したことだある領域であるはずだ。本来そこは広く、深く、そして生き生きとした生命力に満ちている。しかし、いざその世界を言葉にして語ろうとした途端、あるいは、つぶさにそこを見ようとした瞬間に、この領域は突然、収縮し始め圧力を増し、それまでのその中で平気で呼吸していたはずの人々を否定と肯定の二極のどちらかへとはじき出してしまうのだ。魂のネバ^ランドで呼吸し続けるにはちょっとしたコツと知恵が必要でしかも、ちょうどダイビングと同じように、頼りになるガイドや友がいるに越したことはない。ぼくにはそうした<あわい>にとどまることを様々な形で支援してくださった先達や先輩たちがたくさんいる。書物に通じ、あるいは講演や授業を通してであった、しなやかな魂の知性とでもいうべき方々である。そうした方々との出会いは、それだけでも幸運のたまものだといえるわけだけれど、さらに幸運の星に恵まれた僕は、そんな先達に直接お目にかかってお話を伺うチャンスにまでも恵まれた。この対話集は、その星の幸運をこれなた幸運の働きによって、一冊の本の形にしたものだ。それぞれのかたのご専門や関心領域は様々だ。当然語られる内容のバラエティに富む。しかし、こうしてみると、一つ共通して言えることがあると思う。それはみなさんがとてもリラックスして自由に語ってくださっているという点だ。お話しくださるのは、それぞれ一流の書き手であり、語り手である皆さんである。ふつうなら僕など出る幕のないはずだろう。しかしもし僕が聞き手になって益することが何某でもあったとするならば、それはこの<あわい>の感覚だけは守ろうとした努力が何とか成功したからではないだろうか。ラテン語で<魂>はアニマという。これには息という意味もある。女性名詞であることからもわかるように、それはしなやかで、繊細で、けはいのみで感じられるものだ、ここに収めることができた一つ一つの対話から、アニマの香りをかぎ取っていただけたら、こんなにうれしいことはない。いや、この本を読んでくださっている間だけは、間違いなく、あなたもアニマの香りの中で呼吸することになるはずだ。そう、それだけは、僕が保証しよう。それがこんなに素晴らしい魂の知性たちの声を招待できた、ホスト役である僕のせめてもの務めではないか。

神祇神仰by薮田紘一郎

古代から現代まで神祇信仰はどんどん変貌してきている。特に明治以降に大きく変貌した。古代神祇信仰を知ることは現代の神社信仰のもともとの実態を知ることでもある。神祇(じんぎ)とは、日本の神々のことである。神道(しんとう)という言葉の文献上の初現は<日本書紀>用明天皇元年条(586年)であり、社殿の建立は七世紀中ごろから始まると考えられている。しかし、日本人の神に対する信仰ははるか縄文時代の昔から存在した。したがって、日本人が原初から保有してきた神に対する信仰を語る場合、神道とか、神社信仰という言葉は必ずしも適当ではない。また神道という言葉はかなり宗教性を帯びてしまったが、日本人の神に対する信仰がはたして宗教なのかという疑問もある。日本人の信仰する神様がいわゆる全知全能の神でない以上なおさらである。実は<神祇>の語源は古代中国の天神地祇(てんじんちぎ)である。古代中国では、天神は文字道り、天をつかさどる神(こうてん上帝=天帝=天の最高神、日月(じつげつ)、星辰、風神、雨神,霊星など)であり、地祇は地をつかさどる(后土(こうど)=大地の最高神、社稷(しゃしょく)-地霊と穀霊、山獄の神、海の神、川沢の神など)であった。日本では本例の意味を改編し、天神は征服者である天津神、地祇は被征服者である国つ神などとするが、現在では、広く<神々>という意味でも使われる。本書が使用するのは、この意味である。律令祭祀とは天武天皇の意志により689年制定の<飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)>を基にしてスタートした律令国家が行った国家祭祀である。記紀神話とは、712年完成の<古事記>や720年完成の<日本書紀>の神話である。律令国家が宮中で正式にまつった神々は36座あった。<古事記>の神話には267神、<日本書紀>の神話には181神が登場する。記紀に共通する神々は112神である。全国に神社は約11万社ある。年に一度も神社に参拝しない人を探すのは難しいほど神社は日本人に親しまれている。しかし神社信仰のもとである古代神祇信仰がどのように成立したかはいまだ解明されていない。例えば、現在、神社に祭られている祭神には記紀神話に登場する神々が多い。しかし、十世紀に編纂された<延喜式神名帳>には式内社として2861の神社が掲載されているが、記紀神話に登場する神々はほとんどまつられていた形跡がない。それ以外の古代神祇信仰の対象である神々が祭られていたのである。