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エリザベス洋装店のブログ

ナギナタコウジュ

縄文人と近く、日本人のルーツともいわれるアイヌ民族が暮らした地は北海道などの寒冷地である。そこにはもちろん、南方系の常緑照葉樹である<茶ノ木>は育つはずもなく、酔って日常茶は緑茶ではなかった。アイヌ名<セタエント>は”犬が集まるところに薬草がある”のような意味でアイヌ民族の日常で最も飲まれたお茶であった。冬に入る直前の晩秋に、ピークを迎える最も遅い季節の和ハーブであり、保存しにくい夏を通過せず、極寒の季節が長い蝦夷地区の保存飲食材としても適していたのだろう。風邪をひいたときは似ている鍋の上に顔を置いて、布などをかぶり、蒸気を逃がさないようにして風邪を治すが、この治療法はアイヌ語で<ヤイスマウカラ>と呼ばれる。また胃腸の不調や二日酔いには薬食同源として、薬を一緒に煮込んだ粥を食すという。冬も近づき、植物が少なくなりかけた晩秋に、林縁や日当たりのよい道端などにその存在を示す。茎先んp片側だけに5mmほどの淡紫色の小花を多数つけ、中央部の幅が広く花の反対側はすべて苞となり、その姿が武器の<ナギナタの先端に似ているため、この名がついた。草丈は50センチほど、茎部分はシソ科特有の四角形で繊維がしっかりしているが、むしろ葉部分よりも香りが強い。芳香部分はナギナタケトンなどのケトン類やテルペン類で、はっかとしそを合わせたような香りを持つ。アイヌの人々のように単体の和ハーブティーもよいが、香りが強いために好き嫌いがある。しかし、ほかの和ハーブともミックスには抜群のベース役となる。本州以南ではあまり有用されていないが、日本一の薬草エリアである伊吹山麓では茶材や浴用剤として有用してきた。現地薬草名人によれば、野生のものは生命力が強いが、栽培すると雨や虫に弱く、育成が難しい種のひとつであるという。

坂本竜馬の始祖は竹内宿禰2.

その後、天皇は熊襲征伐に赴いたものの、俄かに崩じてしまった。仲哀帝の没後、皇后は先の神託を下した神々の名を問うたところ、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)-いわゆる”筒男三神”=住吉三神の名であることを知る。ときに皇后は、臨月(出産する予定の月)であったが、石を腰にはさみ、帰還の日に出産することを神々に誓って、橿日浦(かしいのうら)(現、福岡県福岡市東区)で髪を説き、みずら(角髪男子の髪に結いなおして、群臣に語った。<-上は神祇の霊を蒙り、下は群臣の助けを借りて、軍を興して高い波を渡り船団を整えて宝の国に臨む、もしことがなれば、群臣の功績であり、ならなければ私一人の罪である>人々はその言葉に感動し、具体的な外征計画を作成したが、その中にあって中心的な役割を担ったのが、将軍、竹内宿禰であった。軍勢は一気にわに津(わにの津)に(現、長崎県対馬市上対馬町鰐浦)から渡海した。三韓征服である。筒男三神ら神々に助けられた皇后は、新羅に到着。皇后らの船を助けた大波は、そのまま新羅の国中に押しあがったので、新羅王は大いに恐れ、戦わずして降伏した。百済と高句麗の国王は、この新羅の降伏を耳にし、ひそかに皇后の軍勢を偵察にいかせたところ、とても勝てそうにないと悟り、自発的に降伏を申し込んだという。新羅出兵から帰還した神功皇后は無事、皇子(のちの十五代応神天皇)を出産。翌年(皇后摂政元年)二月、群卿百寮を率いて穴門豊浦宮(あなとのとようらのみや)で仲哀帝の葬儀を終えると、海路、京へ向かった。その後、皇后は幼子を守って、その異母兄と戦い、新羅再征を割断し、内務外交をつかさどり、摂政六十九夏四月十七日、椎桜宮((若桜ノ宮)にて崩御したと記述されている。神功皇后は日本神話の時代に輝いた女性として、長く日本人の中で理想的母性として語りつながれた。同様にそれを補佐した竹内宿禰は、忠臣、武勇の将の理想像として仰がれることになる。宿禰は成務天皇(第十三代)の治世に初めて<大臣(おおおみ)>に地位につき、その子孫は葛城(かつらぎ)氏、曽我(そが)氏などの有力豪族となったと伝えられるが、そのはるか子孫の坂本家も含め、それを実証する方法を歴史学は持たない。

坂本竜馬の始祖は竹内宿禰1.

竜馬の父、坂本長兵衛(八平直足はちへいなおたり)が、天保9年(1838)に藩庁へ差し出した<先祖書指山控>によると、坂本家は<紀武内の子孫と伝う>とある。伝説上の英雄、竹内宿禰(たけのうちのすくね)がその先祖だというのだ。この人物は伝説上の人で、景行天皇(第12代)から仁徳天皇(第16代)に至る五代に仕えた重臣であったという。三百年あまりも生きたといわれ、伝説上とはいえ、長寿日本一としても知られている。特に武内宿禰をして後世にその名を知らしめたのは<古事記><日本書紀>にある神功皇后(息長足姫尊、おきながたらしひめのみこと)の伝説によってであったろう。伝説の発端は中哀天皇(第十四代、日本武尊の子)が筑紫へ渡り、皇后の同行して、灘縣(ながあがた)の香椎宮へ移ったことに始まる。中哀天皇八年の秋、九月五日、皇后へ神託が下った。<天皇は熊襲の服さぬことを憂えてはいるが、海のかなたには金銀豊かな国がある。この国を天皇に与えよう>熊襲よりまず、新羅を打つべし、との神託の旨を皇后は中哀天皇に告げた。ところが、天皇はこれを疑い高い岳に上ってはるかに大海を見渡したが水平線のかなたにそのような国は見えなかった。神託を信じなかった天皇に怒った神は<神をそしる天皇には、その国を得ることはできない。皇后の腹中の子がその国を得ることとなろう>と再び皇后に宣託したという。この神託をしたのは竹内宿禰であり、神を疑い変死した中哀天皇がたたらぬように祀ったのが、越前国敦賀郡の気比神宮寺なので、もうすでに、坂本竜馬と福井県のつながりはかなり昔から深いつながりがあったのだ。そして昔、越前国ことに、足羽郡今立郡などを中心に栄えていた豪族で生江(いくえ)氏というのがいたが、竹内宿禰の子、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の後裔と言われている。

1300年開山なぜ相次ぐ?

全国にある白山神社でその名を知られ、富士山、立山とともに日本三霊山とされる白山が2017年8月9日開山千三百年を迎えた。地元は盛り上がるが少し調べると白山以外でも1300年の区切りを祝うあれこれが目につく。当時は奈良時代。なぜ1300年の説目が相次ぐのだろうか。冬場に関西側から見上げると白山は緑の山の向こうにひときわ白く輝いている。古くから信仰の対象になってきた。その山に1300年前の717年、初めて登頂したのが越前の僧侶、泰澄だった。伝記によると、泰澄は682年生まれ、767年に86歳で亡くなった。白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)(2,702m)に上り、山頂近くにある池で祈ると、九頭竜王が現れ、間もなく11面観音に姿を変えた。天皇の病気を治したり、天然痘の流行を収めたりといった話も伝わる。泰澄は白山以外にも次々と山を開いた。ゆかりのある山や寺社などは長崎から山形、東は神奈川、江の島まで800以上にもなる。石川県の石動山(せきどうさん)も開山1300年祭を歌う。ちなみに来年開湯1300年とされる粟津温泉も泰澄が見つけたと伝わっている。岐阜県養老町は今年<改元1300年>を祝っている。というのは717年、元正天皇が元号を霊亀から養老に改めたからだ。町の担当者は<女帝の元正天皇がこの年、養老を訪ねた。当地の美泉に感心され、それをきっかけに改元が行われた。そんないきさつや、孝行者の猟師が滝に流れる酒を父に飲ませた民話<養老乃瀧>から町名が付きました。>と話す。各地のルーツがある<養老>はどんな時代だったのか。<710年に都が奈良県北部の平城京へ移り、しばらくが過ぎた。本格的な律令国家が動き出したころ。仏教は6世紀に日本に伝来した。養老の時期には中央の僧侶が地方へ行き、山で修業したこともあったでしょう。碁盤の目のように道を配置した都が作られ、女帝が統治した。養老律令に編纂が始まり、養老4年に日本最古の正史の日本書紀が完成した。<そう考えるとひとつの時代の説目立った。自分たちの伝統や正当性を示そうとして、後世になってから、養老年間が始まりだったと主張する。そんなケースもあるかもしれませんね。

死んだあとどこへ行くのかby立川武蔵

キリスト教では人間は死んだら土にかえる。死んだら何にもないという。仏教における尊厳について、キリスト教関係者に問われたのが<死後の世界>という本の執筆のきっかけだ。尊厳という問題を仏教が扱うことは少ない。そこで死に際して仏教がどのような態度をとってきたのかを、考察した。<死んだ後、どこへ行くのか>と宗教学者である著者はよく尋ねられる。輪廻を信じたい人も、現代日本では多くなっているという。だが輪廻の説は、最終解決ではない。輪廻は煩悩に染まった世界であり、そこからの解脱、離脱を目指してきた伝説を、仏教の歴史は持っている。輪廻の世界の超越のため、仏教がもともととっていた方法は、修行により煩悩を滅して悟りに至ることである。大乗仏教において、帰依という信仰の形態が生まれた。私語を阿弥陀仏に託さば、浄土へ行けるといった信仰だ。こうした流れを整理したうえで著者は、自らの死への態度を最後に述べる。阿弥陀に身を託したその瞬間から<後>はない。<これが私の考える、仏教流の尊厳死です。>印象深い個所がある。私語も姿を変えてでも生きていたい。輪廻思想の源にあるこの願いが、究極の願いであるならば、殺しあうことこそ究極の悪であり、<人間の尊厳ということがありうるならば、この究極の悪ニア地向かうべきなのだ>と。生きている間にすべき実践の指針を一つ得た思いだ。