SHOP BLOGアソビねっブログ

エリザベス洋装店のブログ

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた4by鶴田真由

目に見えない神様界の出来事は、現世から一枚、ベールの向こう側で繰り広げられているように思うのです。これが先ほど話したパラレルワールドと感じるところです。丁度、宮崎駿さんの<千と千尋の神隠し>のように。あのお話では川の向こう側に神様界がありました。向こう(神様界)が変われば、こちら(現世)も変わる。どこか表裏一体になっていて、向こう側の世界が反転することで、こちらがわのせかいをつくりだしているように思うのです。だから今回のように、”国つ神を代表する神社”と、”天津神を代表する神社”の遷宮の日取りが反転していたとすると、そこに何らかの暗号が秘められているようで、わくわくしてしまうのです。きっと神様はそうやって、ちょっとだけ、ひっかけ問題のように向こうの世界からこちら側にこっそりと”お知らせ=暗号”を届けるに違いない!そう信じたくなってしまうのです。だとすると、その表れが現世にどう映し出されたのかを探し出したくなってしまいます。

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた3by鶴田真由

そして、2012年には<古事記>編纂1300年を迎え、翌年の2013年になると、日本を代表する出雲大社と伊勢神宮が、それぞれの遷宮を迎えました。遷宮とは、お宮を建て替える御祭り(-儀式)のことです。出雲大社では60年に一度行われているように思えますが、応仁の乱で伸びたり、第二次世界大戦で伸びたりして、今回は1953年以来の同年の御祭りでした。出雲大社では5月10日、伊勢神宮(外宮)では10月5日と、面白いことに数字が反転した日に行われました。(5/10,10/5)とまるで、数字が鏡に映し出された絵のように重なったことから仲たがいをしていた出雲の国つ神(地上を収める神様)と伊勢の天つ神(天上界を収める神様)の間に<結び(和解)>が行われたとも言われています。<古事記>の中に、こんな事件がありました。出雲の地を収めていた国つ神は、<ここは我々が治めるべき地である>と天上界にいた天津神に言われ、無理やり国土を譲らされたのです。それ以来、国つ神と天津神の間には目には見えない亀裂が生じていたのです。

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた2by鶴田真由

最初は日本の神話<古事記>を読み解きながら、その舞台となったところを訪ねていきました。<聖地>と呼ばれる場所には必ず物語があります。そしてその物語には神々の思いが集積していました。それは遠い遠い昔の記憶の集積でありながら、同時に<いま>にもリンクしている。そんなパラレルワールドのような場所だったのです。<古事記>の旅が終わったのは、忘れもしない2011年3月11日。伊勢神宮内でのことでした。携帯にニュース速報が入り、それぞれが家族の安否を確認した後、とりあえず海からは離れようと内陸にはいり、ビジネスホテルで荷を下ろしたのは午後7時過ぎ、皆で寄り添うようにして一部屋に集まり、テレビの映像を見た時の衝撃は一生忘れられないと思います。津波に町が呑み込まれ、コンビナートが火の海となるさまは目を覆いたくなるようなものでした。

神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた1by鶴田真由

ひょんなことから集まった女一人と男三人。偶然に見せかけた”必然”で出会ったこの世人は<古事記>を紐解きながら旅をすることに決めました。<古事記>は、日本の神話でありながら古代史の一面も持つ、という非常に興味深い書物です。このたびは日本人の心と体に眠っている古(いにしえ)の記憶を開いていきたい、ということから始まったのです。プロジェクトの企画をしてくれる知識人の木戸寛考さんを<悟空>見、おいしいものが大好きで一度会ったら忘れられないほどのインパクトを持つプロジェクトデザイナーの古田秘馬(ひま)さんを<猪八戒>に、物静かなイケメンカメラマンの井島健至(たけし)さんを<沙悟浄>に、そして残り物には福がある。残りの三蔵法師の役名をいただけた私とで<ニッポン西遊記>と名付けられた旅が始まったのでした。

竜馬の先祖は明智氏ではない。

坂崎紫らんの<汗血千里駒>を底本として、大正三年(1914)に千頭清臣(ちかみきよおみ)が<坂本竜馬>を著した。そこでは竜馬の坂本家の先祖が戦国時代の明智光秀の一族であったと述べている。坂本家にも<明智氏の末裔>との伝承があったようで、以来、この伝承がまことしやかに広く一般に浸透したのだが、これは坂本家の家紋がたまたま桔梗であったことから、近江、坂本を重ね合わせて、光秀の一族が土佐の国、長岡郡才谷村(現、高知県南国市才谷)に隠れ住んだとのロマンを創作したに過ぎない。明らかに後世の作為であった。戦国時代、土佐を支配していた長宗我部元親は、なるほど光秀とは親しかった。その長宗我部の家臣、豊永佐兵衛の妻が、六和国(現、奈良県)から落ち延びてきた人物の娘で、この女の妹が坂本家に嫁いだという挿話を以前何かで読んだことがあるが、これはいただけない。竜馬の<坂本家>における、初代ともいうべき人の名は太郎五郎といった。この人は<生国山城国>で戦乱を避けるべく<弘治永禄のころ>(1955~1570)に土佐へきたとある。明智光秀が長宗我部氏と関係を持ったのは天正年間(1573~1592)に入ってからであり、ちなみに光秀が主人、織田信長との”本能寺の変”は天正10年6月2日の出来事であった。太郎五郎はそれ以前、信長が尾張平定に躍起となっていたころに、すでに土佐にいた。しかも天正16年(1588)の才谷村の検知によれば、この太郎五郎は武士ではなく、一介の農民でしかなかった。当然、姓などはない。それにしても感心するのは、この人物、よくぞ土佐国までたどり着けたものだ。