平安時代
平城京を離れ784年に長岡京へ、そして十年足らずで、新都を捨てて、794年に平安京へ遷都するところから、約400年の長さにわたる平安時代がスタートする。天災や疫病、戦乱といった災厄に脅かされた、決して<平安>とは言えない、だからこそ天皇から貴族まで、深く仏教に帰依し、救いを願った時代だった。平安時代を大きく前後期に分けるなら、前期は奈良時代を受け継いだ中国化の時代であり、後期は中国文化を咀嚼しつつも、自国の文化や過去の歴史に目を向け、後世の規範となる王朝文化を花開かせた時代といえるだろう。平安京は街区を碁盤の目状に配置した都で、東西4,5キロメートル、南北5,3キロメートル。皇居や官庁で構成される大内裏(だいだいり)は中央北端を占め、南北を縦断する朱雀大路(すざくおうじ)が都を右京と左京に二分していた。<都>とはいっても、その中に多くの田んぼや荒れ地を抱え、西側の右京は、平安時代前期には衰退してしまう。桓武天皇は政治的な<抵抗勢力>となっていた七大寺(興福寺、薬師寺、東大寺、西大寺、元興寺、大安寺、唐招提寺)が平安京へ移転するのを許さなかった。代わりに新たな国家鎮護を担う寺として建てたのが、東寺と西寺だ。清新な教えを求めた桓武天皇、そして嵯峨天皇の要請に応えたのは、中国で新しい教学を学んだ空海、最澄だった。空海は、転生を繰り返した未来ではなく、現在の好みのまま悟りに至れる【=即身成仏】と説いた。その心理は、時に図像の形を、時に真言の形をとる。そこで真理と一体化(=成仏)するため、絵や仏像、法具など豊かなイマジネーションを喚起するための道具が次々と密教の中に取り入れられたのだ。彫刻中心だった仏教美術は、密教以降曼荼羅、祖師像など、絵画が重要な位置を占めるようになる。一方の最澄は、法華経を中心とする天台数学を柱に、禅や念仏、戒、密教までを含む総合的な仏教の体系を構想した。だが、密教に関しては、中国人僧、恵果(けいか)から奥義を伝授された空海には及ばない。そこで当初、最澄は空海に法の伝授を頼み、空海もこれに快く答えたが、やがて断絶してしまう。一方、仏像は一つの木から体の中心部分を削りだした木彫仏が主流になっていった。これは奈良時代後期から増えた都市の寺を出て、山で修行する僧侶たちが、山中の滝や深い森などに触発され、仏像の素材として、それ自体が霊性を感じさせる木を選ぶようになったからで、ある種の神仏習合的な感覚が働いていたのではないかともいわれる。またこうした仏像を彫る仏師たちの手で、従来目に見えないとされてきた日本の神々も、人の姿として像に表わされるようになっていく。