SHOP BLOGアソビねっブログ

エリザベス洋装店のブログ

三島由紀夫のねじれた生い立ちbyジェニフェールルシェール19、

昭和12年10月梓は農林省営林局事務次官に就任する。庁舎は大阪だったが、夏子が孫の転校に反対したため、単身赴任することに決まった。こののち4年ほどの間、梓は東京の自宅に戻ってくるのは、月に3,4回だけとなる。これでようやく倭文重(しずえ)と公威は思うままに睦みあえるようになった。公威にとっては、過保護のあまり制限でがんじがらめにされた生活の中で、自分の唯一の見方、自分が唯一愛情を注ぐ相手、それは母親だった。12年間も内に押さえつけてきた公威の愛情が堰を切ったように溢れ出す。倭文重(しずえ)は従来の決まりをすべて覆して、息子が本を読んだり、詩を書いたり、これまでずっと禁じられていたことをするのを励ました。公威の方は、自分が書き上げた物を真っ先に母のもとへ持って行って読んでもらう。これは終生変わることはなかった。公威は弟妹とも打ち解け、二人も兄によくなついていた。どちらかといえば、一人でいる方を好む公威だったが、弟妹と遊ぶのは好きだった。12歳なのに、8つほどにしか見えないほど、外見は相変わらず弱弱しかったが、初等科のころに比べると、はるかに健康になって、勉強に打ち込める体力もつき、成績もよくなった。公威は幸福といってもいい日々を送っていた。暑中休暇に入ると梓は公威を鍛える必要があると一方的に決めた。息子の生白い肌や痩せて弱弱しい身体を自分自身の恥だと思っていたのである。それまで公威は主治医や祖母から直射日光に身体をさらすのを禁じられていたが、梓は息子に日光浴をさせようと考えた。さらには泳ぎも教え込むつもりだった。一家は8月一ぱいを浜辺で過ごした。しかしその夏、公威は泳ぎを覚えなかった。その代わりに見出したのは、虚空を前にしたような、魅了をも恐怖ともつかないうみの蠱惑(こわく)だった。眩暈(めまい)に襲われた公威は、母のもとへ逃げていく。海は少年の中にいつまでもその波音を響かせ続け、やがて連綿たる描写となって作品の中へ流れ込んでいくことになる。公威が14歳になった誕生日の数日後、夏子は胃潰瘍出血のため世を去った。祖母の死を知らされても公威は能面のように無表情だった。夏子の記憶は公威の潜在意識の奥底に押し込まれ、もう表に出てくることはない。公威はこれから先、夏子について話したり書いたりはしない。唯一の例外は<仮面の告白>である。しかし、夏子による異様な教育は、公威の人生に決して消えることのない大きな影響を及ぼした。この祖母なくしては、おそらく作家、三島由紀夫が誕生することはなかった。

三島由紀夫のねじれた生い立ちbyジェニフェールルシェール18.

家で本を読むのは禁じられた一方で、物を書いていることは父親に気付かれてはいなかった。親元に戻って間もない昭和12年【1937年】4月、中等科に進んだ公威が最初にしたことは、これまで何人もの作家を輩出してきた学習院文芸部の一員となることだった。初等科時代の作文からは、早熟な天才のしるしが認められることは、なかった。それどころか、その気だったわざとらしい文体を嫌う教師もいた。だが文芸部に入ると公威は由緒ある校友会誌<輔仁会(ほじんかい)雑誌>に五篇の詩を投稿し、養12年に活字になる。同誌の次の号には、平岡公威の本名で、さらに多くの詩と、最初の小説<酸模(すかんぽう)-秋彦の幼き思ひ出>が掲載される。6歳の少年が初夏、スカンポの花が燃えるように咲く丘の上で、次には丘のふもとの暗い森の中で、一人の脱獄犯人と出会うという物語である。泣きぬれる少年、殺人者、生命とざわめきと秘密の意味が満ち溢れる自然、のちの三島作品で再び描かれることになるこれらの要素が、12歳の少年の筆によって生み出されたのだった。

三島由紀夫のねじれた生い立ちbyジェニフェールルシェール17.

昭和12年に起きたもう一つの大きな出来事は、春先のことだ。夏子が公威を両親のもとに返す時が来たと判断したのだった。定太郎は孫を自由にしてやるよう1年前から夏子を解き続けていた。夏子は昼夜を問わず苦痛にさいなまれていたためにまだ62歳なのに見た目は10歳も老けており、もはや孫の面倒まで手が回らなくなっていた。祖母は自分のもとを離れる公威に毎日午後に電話をすること、週に一度は泊まりに来ることを約束させ、孫の方は最後までその言いつけに従った。公威の教育について重要な事柄の決定権は、相変わらず夏子が握っていた。学習院は中等科の生徒に少なくとも1年間の寮生活を半ば強制しており、倭文重(しずえ)は息子にそれを経験させたかった。他の子と一緒に生活し、自分一人で身の回りのことができるようにならなければ、と考えたからだ。だが、夏子は聞く耳を持たない。孫には集団生活が耐えられるわけがないとかたくなに信じているのだ。さしあたってのところ、倭文重(しずえ)はわが子を手元に取り戻すことができてこの上なく幸福だった。すぐに今の住まいよりも広いところを探し始め、ほどなくして両親と3人の孫は渋谷区にある簡素だが快適な家に移った。公威は生まれて初めて自分の個室を与えられる。これからは気兼ねなく音を出して構わないのだ。-けれどもそこから物音が聞こえてくることはないだろう。少年はその部屋をものを書くために使うのだから。家族そろっての生活は、祖母のもととは比べ物にならないほど自由なものだった。けれども再会の喜びも、別の暴君の登場により色あせてしまう。父親は子供にとっての重石(おもし)であるべきだ。それでつぶれてしまうような子供は死んだ方がましだ。というゆるぎない信念を持つ梓は、冷酷で専横的な家長だった。特に倭文重(しずえ)と公威に対しては輪をかけて苛酷にあたった。梓の目には妻はあまりにも神経質で、長男ときたら忌々しいほど軟弱だ。何が息子をこのように女々しくしてしまったのか。父親は元凶にあるのは読書癖だと考え、それを徹底的に禁じることを決める。12歳のころ、自由に外で遊べるというのに、公威は部屋にこもって本を読むのが好きだった。12歳のころより、<源氏物語>から谷崎純一郎の悪魔的な作品に至る日本文学を渉猟していただけでなく、リルケやオスカーワイルド、ヴィリエドリラダンといった西洋文学までも読み漁っていた。このような文学的な嗜好は、公威の年齢や、西洋を一段下に見る戦時日本の世相からすると変わっていたが、学習院は、そのような本を禁書とすることはなかった。しかし、儒教的価値観にこり固まった梓にしてみれば、文学などは虚偽と腐敗の塊でしかない。公威が読書しているのを見つけると本を取り上げ、怒鳴り散らしながら部屋の外へ投げ捨てるのだった。

三島由紀夫のねじれた生い立ちbyジェニフェールルシェール16.

中等科2年の13歳になり、公威が充分大きくなったと判断すると、夏子は初めて歌舞伎座へ孫を連れて行った。演目は<仮名手本忠臣蔵>。芝居は5時間に及んだが、公威は日々の生活の辛さを忘れて夢中になっていた。芝居に向ける情熱は、それから一生の間続くだろう。足繁く歌舞伎座へ通うだけでなく、六篇の歌舞伎様式の戯曲をものにする。最後の一篇<椿説弓張月>は死の前年に自ら演出もしている。歌舞伎役者たちの言によれば、三島は現代の作家でただ一人、歌舞伎の約束事と正調の科白を自家薬籠中のものとしている人物だという。公威は歌舞伎を介して祖母から、侍や浪人、刃傷(にんじょう)沙汰、名誉ある自死などで彩られた昔日の日本に対する鍾愛(しょうあい)を受け継いだ。そしてさらには華麗な衣装、色鮮やかな化粧、耽美の嗜好も。思春期に入ると前からすでに血塗られた病的な夢想に取りつかれていたが、そこに洗練を極めた古き日本が重なることで、公威の美意識の基盤は徐々に形成されていく。公威が祖母から教え込まれたのは誇り高き武士の精神、残酷な、そしてそれゆえに崇高な死を幼いうちから運命づけられている武士の精神であった。同年代の少年たちが抱いている関心とはあまりにかけ離れていた。

三島由紀夫のねじれた生い立ちbyジェニフェールルシェール15.

公威はいつまでも夏子の意のままになる<物>であった。孫が大きくなるにつれて祖母の容態は悪化の一途をたどり、宿痾(しゅくあ)の坐骨神経痛に腎不全と胃潰瘍がかさなった。夏子は十歳にもなっていない孫を自分の病室で寝起きさせ、有無を言わせず看病に当たらせる。夜中に起こしては薬を持ってこさせたり、額の汗をぬぐわせたり、背中をさすわせたりする。夏子は発作を起こすと苦痛に身をよじって泣き叫び、髪をかきむしる。錯乱して刃物をのどにあてがい、殺してくれ、と口走ることもある。公威にはそんな祖母をなすすべもなくおびえた目で見つめるしかできなかった。このような幼少期のトラウマは、作家にとっては時として恰好の題材となる。しかし三島は、祖母と過ごした異常な幼年時代についてほとんど語ることはない。ただ、病気が我が物顔に家じゅうにはびこっていた、と簡単に描くだけである。たまに両親の家に行くと、公威は普通の子供に戻ることができた。思うままに笑い、走り回る。母親にまとわりつく。弟妹の面倒を見る。もっとも父親は息子に無関心で、庭にしつらえた離れから出てこないのだが。誰からも祖父母宅での暮らしについて尋ねられないのに、公威は夏子のことを進んで話題にし、夏子がしてくれた話を皆にきかせた。祖母を襲う癇癪や錯乱については口をつぐんでいた。公威の中にあるのは、相矛盾する感情だった。様々な禁止に縛られた異常な生活を強いられていることに苦しむ一方で、それでも祖母を深く愛していた。恐怖と同じだけの愛情を祖母に抱いていたのだ。夏子は一歩間違えれば公威の人生を狂わせてしまいかねなかった。それでもなおこの祖母は孫に何にも代えがたい貴重なものを授けた。それは歌舞伎への愛である。以前から、夏子は、一人で歌舞伎座に通っていた。昼過ぎから観劇し、夕方帰宅すると、芝居の筋書きや役者の楽屋話、舞台のありさまやきらびやかな衣装について孫に語り聞かせていた。年とともに公威の中では途方もない物語が目の前の舞台で繰り広げられるこの芝居を見てみたいという思いが膨らんでいく。