王政復古の大号令
大政奉還後も、政局における徳川慶喜の存在は変わらず大きなものでした。政権、返上を受けた朝廷は、新しい政治の枠組みや決まりを作ることができず、慶喜にとよらざるを得ない状況だったからです。この状況を打開するため、岩倉具視、大久保利通を中心とした討幕派の面々武力を背景t得朝廷、幕府の首脳を排除し、新しい体制を作ることを画策しました。慶応3(1867)年12月9日にクーデターは実行に移されました。朝廷ではそれまでの中心的な役職であった摂生、関白が廃止されました。また慶喜が申し出ていた将軍職辞任が認められ幕府も廃止となりました。そして総裁、議定、参与からなる新しい政府が成立したのです。福井藩からは松平春嶽が議定、中根雪江、酒井十之丞、毛受(めんじゅ)鹿之助が参与となりました。その新政府首脳による初めての会議が<小御所会議>です。<小御所会議之図>の中には激論を戦わす岩倉と山内容堂が描かれています。また大久保と春嶽が議論に加わる様子も見えます。小御所会議の議題は慶喜の処置でした。慶喜の官職と領地をはく奪する<辞官納地>の是非が問われたのです。まず容堂が発言します。慶喜が会議に参加していないことを問題視し、<二、三の公卿(くきょう)が幼い天子(明治天皇、当時16歳9)を擁して陰謀を企てているのではないか>と述べますが、これには岩倉が<英明なる天皇の御前で、幼い天子とは無礼であるぞ>と反論します。春嶽は容堂の発言を受けて<徳川氏200年の功績は、近年の失敗に勝ります。容堂の発言を入れられますように>と発言しますが、岩倉には大久保が加勢し、なかなか決着がつきません。しかし、休憩を挟んで岩倉に同意する意見が増え、慶喜に辞官納地を求めることに決したのでした。慶喜の命運はここで尽きたわけではなく、慶応4年1月3日の鳥羽伏見の戦いを迎えるまで復権の可能性は残っていました。しかしここで260年以上続いた江戸幕府は、終焉を迎えたのです。幕府に別れを告げた先には、明治という新しい時代の夜明けが待っていました。