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エリザベス洋装店のブログ

日本少国民文庫 by 皇后美智子

疎開中に父が持ってきてくれた本の中で、あと三冊、私の思い出に残っている本があります。これは兄の持っていた本で、いつか読みたいと思っていたものを、父に頼んで借りてきてもらったものでした。三冊とも<日本少国民文庫>というシリーズに含まれていました。<少国民文庫>は全部で十五、六冊あり、<人間はどれだけのことをしてきたか><人類の進歩に尽くした人々><発明物語と科学手工><スポーツと冒険物語>などという題で一冊ごとがまとめられています。父はこの時、その中の<日本名作選>一冊と<世界名作選>二冊を持ってきてくれました。この文庫が初めて刊行されたのは昭和11年(1936年)、兄は五つで、私はまだ二つの頃です。その後戦争中の昭和17年(1942年)に改訂版が出されており、母が兄のために買ったのは、兄の年齢からみてもこれであったと思います。いま私の手元にあるものは、今から十数年前に入手した、昭和11年(1936年)版のうちの数冊ですが、<名作選>の内容は記憶のものとほぼ一致しますので、戦前も戦中も、あまり変化はなかったものと思われます。いまこの三冊の本のうち、<世界名作選>に巻を開いてみると、キップリングのジャングルブックの中の<リッキ、ティッキ、タビー物語>やワイルドの<幸福の王子>。カレルチャペックの<郵便配達の話>、トルストイの<人は何によって生きるか>、シャルルフィリップやチェーホフの手紙、アンモロー、リンドバーグの<日本紀行>などが並んでいます。ケストナーやマークトウェイン、ヘンリーヴァンダイク、ラスキンなどの名も見えます。必ずしも全部を熟読していない証拠に内容の記憶がかすかなものもあります。

やまとたけるとおとたちばなの美しい愛の姿 by 皇后美智子

父のくれた古代の物語の中で、一つ忘れられない話がありました。年代の確定できない6世紀以前の一人の皇子の物語です。倭建御子(やまとたけるのみこ)と呼ばれるこの皇子は、父天皇の命を受け、遠隔の反乱の地に赴いては、これを平定して凱旋するのですが、あたかもその皇子の力を恐れているかのように、天皇は新たな任務を命じ、皇子に平穏な休息を与えません。悲しい心を抱き、皇子は結局はこれが最後となる遠征に出かけます。途中、海が荒れ、皇子の船は航路を閉ざされます。この時、付き添っていた后(后、弟橘比売命、おとたちばなひめのみこと)は自分が海に入り海神の怒りを鎮めるので、皇子はその使命を遂行し、覆奏してほしい、といい入水し皇子の船を目的地に向かわせます。この時弟橘(おとたちばな)は、美しい別れの歌を歌います。さねさし相武(さがむ)の小野(おの)に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも。このしばらく前、建(たける)と弟橘とは、広い枯れ野を通っていた時に敵のはかりごとにあって、草に火を放たれ、燃える火に追われてにげまどい、九死に一生を得たのでした。弟橘の歌は、<あの時、燃え盛る日の中で、私の安否を気遣ってくださった君よ>という危急の折に息子の示した、優しい庇護の気遣いに対する感謝の気持ちをうたったものです。かなしい<いけにえ>の物語は、それまでもいくつかはしっていました。しかし、この物語の犠牲は少し違っていました.弟橘の言動には、何と表現したらよいか、建と任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ、弟橘の歌はー私は今、それが子供向けに現代語に直されていたのか、原文のまま解説が付されていたのか思い出すことができないのですが、-あまりにも美しいものに思われました。<いけにえ>というむごい運命を進んで自らに受け入れながら、おそらくはこれまでの人生で最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出をうたっていることに、感銘という以上に、強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも、愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられた、不思議な経験であったと思います。この物語は、その美しさのゆえに私を深くひきつけましたが、同時に説明のつかない不安定で威圧するものでもありました。古代ではない現代に海を鎮めるためや、洪水を防ぐために、一人の人間の生命が求められるとは、まず考えられないことです。ですから、人身御供(ひとみごくう)というそのことを、私が恐れるはずはありません。しかし、弟橘の物語は、なにかもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられ、そのことが私を息苦しくさせていました。今思うと、それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかもしれないという、やはり先に述べた愛と犠牲の不可分性への恐れであり、畏怖であったように思います。まだ子供であったため、その頃はすべてをぼんやりと感じただけなのですが、こうしたよくわからない息苦しさが、物語の中の水に沈むというイメージとともに押し寄せてきて、しばらくの間、私はこの物語にずいぶん悩まされたのを覚えています。

民族共通の先祖 by 皇后美智子さま

父がどのような気持ちからその本を選んだのか、寡黙な父から、その時も、その後も聞いたことはありません。しかし、これは今考えると、本当によい贈り物であったと思います。なぜなら、それから間もなく戦争が終わり米軍の占領下におかれた日本では、教育の方針が大幅に変わり、その後は歴史教育の中から、神話や伝説は全く削除されてしまったからです。私は自分が子供であったためか民族の子供時代のようなこの太古の物語を大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたかなどが、うっすらとですが感じられます。父がくれた神話伝説の本は、私に個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたとという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。本というものは、特に子供にも安定の根っこは、かすかに自分の帰属を知ったというほどのもので、それ以後、これが自己確立という大きな根に少しずつ育っていく上のほんの第一段階に過ぎないものではあったのですが。

戦中の山羊の世話と乳搾り by 皇后美智子様

私が小学校に入るころに戦争がはじまりました。昭和16年(1941年)のことです。四学年に進級するころには戦況が悪くなり、生徒たちはそれぞれに縁故を求め、または学校集団として田舎に疎開していきました。私の家では父と兄が東京に残り、私と妹と弟とともに、母に連れられて海辺に、山に、住居を移し、三度目の疎開先で終戦を迎えました。たびかさなる移居と転校は子供には負担であり、異なる風土、習慣、方言の中での生活には戸惑いを覚えることも少なくありませんでしたが、田舎での生活は、時に病気がちだった私をすっかり健康にし、私は蚕を飼ったり、草刈りをしたり、時にはゲンノショウコとカラマツ草をそれぞれ干して4キロずつ供出するという、宿題のノルマにも挑戦しました。8キロの干し草は手では持ち切れず、母が背中に追わせてくれ、学校まで運びました。牛乳が手に入らなくなり、母は幼い弟のために山羊を買い、その世話と乳搾りを私に任せてくれました。教科書以外にほとんど読む本のなかったこの時代に、たまに父が東京から持ってきてくれる本はどんなにうれしかったか。冊数が少ないので、惜しみ惜しみ読みました。そのような中の一冊に、今題は覚えてないのですが、子供のために書かれた日本の神話伝説の本がありました。にほんのれきしのあけぼののようなこのじだいを物語る神話はどちらも8世紀に記された二冊の本、古事記と日本書紀に記されていますから、恐らくはそうした本から、子供向けに再話されたものだったのでしょう。

でんでんむしの悲しみ by 皇后美智子さま

まだ小さな子供であった時に、一匹のでんでんむしの話を聞かせてもらったことがありました。不確かな見送ですので、今、おそらくはそのお話のもとはこれではないかと思われる、新美南吉の<でんでんむしのかなしみ>に沿ってお話しいたします。そのでんでんむしはある日突然、自分の背中ンおからに、悲しみがいっぱい詰まっていることに気づき、友達を訪ね、もう生きていけないのではないかと、自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでんむしは、それはあなただけではない、私の背中の殻にも悲しみはいっぱい詰まっていると答えます。小さなでんでんむしは別の友達、また別の友達と尋ねていき、同じことを話すのですが、どの友達からも返ってくる答えは同じでした。そして、でんでんむしはやっと悲しみは誰でも持っているのだということに気づきます。自分だけではないのだ。私は私の悲しみをこらえていかなければならない。この話はこのでんでんむしが、もう嘆くのをやめたところで終わっています。しかしこの話は、その後何度となく、思いがけない時に私の記憶によみがえってきました。から一杯になるほどの悲しみということと、ある日突然、そのことに気づきもう生きていけないと思ったでんでんむしの不安とが、私の記憶に刻み込まれていたのでしょう。少し大きくなると、初めて聞いた時のように<ああよかった。だけでは済まされなくなりました。生きて行くということは、楽なことではないのだという、何とはない不安を感じることもありました。それでも、私は、この話が決して嫌いではありませんでした。