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エリザベス洋装店のブログ

仙境異聞 by 平田篤胤 3.

文化9年(1812)、寅吉が七歳の時のことであったという。池之端茅町(いけのはたかやのちょう)の境稲荷社の門前に、貞意という易者が住んでいた。貞意は、毎日自分の家の前で、八卦見の商売をしていた。寅吉がじっと見物していると、貞意は<乾(けん)の卦(け)が出ました><坤(こん)の卦がでました>などという。それで卜筮(ぼくぜい)というものは、さまざまの獣の毛を集めておいて、何かになぞらえる決まりがあり、その毛を探り出し、クマの毛が出ればかくかく、鹿の毛がでれば云々と、探り出した毛によって物事を占う術のことだろうと思った。それでもう寅吉は、卜筮が習いたくて習いたくて、仕方がなくなってしまった。ある日、寅吉は、貞意の周りに人がいないのを見計らって、<どうか卜筮の術を教えてください>と頼み込んだ。貞意は、寅吉が子供だったので、からかってみたのだろう、<卜筮はたやすくは教えられない術だ、だから七日ほど、手のひらに、油をため、火をともす行を務めてみろ。それが終わったらまた来るがいい。そうすれば教えてやろう>といった。実際。気安く教えられるものではなかろうと、寅吉は貞意の言葉を真に受けた。寅吉は家に帰ると、父も母も誰も見ていない時を見計らい、そっと二階などに上がったりして、ひそかに手灯の行を始めた。そのあつさはたえがたかったが、何とか七日の行を成し遂げて、貞意のもとへ勇んで出かけた。<ほらこのとおり、てがやけただれてしまったぐらいです。でも言われたように、七日の手灯の行を勤め上げました。どうか、卜筮の術を教えてください>寅吉は頼んでみたが、貞意はただ笑ったばかりで、教えてはくれなかった。寅吉は何とも悔しくてたまらなかったが、どうしようもなく、いよいよ卜筮への興味を掻き立てられただけであった。寅吉は募る思いを抱えたまま、日一日を過ごしていた。

仙境異聞 by 平田篤胤 2.

屋代翁は繰り返し言われた。私はうなずきながら、またこう思った。こちらの世の中の様子も以前とかなり変わってきている。昔は全く秘密にされていた書物や物事も、今では公になったものが多く、知りえなかった神代の道のこまごまとしたことも、次々と明らかになってきている。また諸外国の物事や様々な器具の類も、年とともに世に知られるようになってきた。思うに、これはすべて神のみ心であり、きっとあちらの世界のことも聞き知ることのできる、そんな気運が巡ってきた、ということではないだろうか。そんなことを考え考え歩いているうちに、いつの間にやら美成の家に行きついていた。幸い美成は家にいた。美成はその童子を呼び寄せて、屋代翁と私に引き合わせた。ところがその童子は、ただ我々の顔をじっと見つめたまま、あいさつの一つもしようとしなかった。さて、その童子、寅吉は、口元に微笑みを浮かべて、私の顔をしげしげ見つめていた。が、ついに押えかねたという様子で、<あなたは神様です>と何度か繰り返した。寅吉の口ぶりがあまりにも神妙で、私には何とも答えようがなかった。<あなたは神の道を信じ、学んでおられるでしょう>私がだまったままでいると、寅吉が話しかけてきた。<こちらは平田先生と言って、古学の神道を教授しておられる方だ>そばから美成がそう説明すると、寅吉は笑って答えた。<間違いなく、そうだと思った>この寅吉の返答に、早くも私は驚き、思わず問いかけた。<どうして私のことが分かったのか、話してくれないか。また私のように神の道を学ぶことは善い事か、それとも悪いことか、どちらであろうか、<何となく、神を信じておられる方に違いないと、ただそう心に浮かびました。それでそう申し上げたまでのことです。無論、神の道ほど、尊い道はございませんから、神の道を信じておられるのは、まことに善いことです>

始皇帝の末裔を名乗る秦氏が創建した松尾大社

京都西北の松尾山は、有史以前から磐座(いわくら)信仰の対象となった聖地と考えられていて、大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が山麓に社殿を立て、山神オオヤマクイを祀ったのが松尾大社の創建とされる。同社は皇城鎮護の神(京都の町と御所を守る神)として平安京遷都のころから皇室の崇敬を集め、また民間では酒造、醸造の守り神として、現在も日本中の酒造組合。味噌や醤油のメーカーから熱く信仰されている。同社を創建し、その後長く神職として仕えてきた秦氏は、秦の始皇帝の末裔を自称する渡来系氏族である。松尾大社が酒の神とされるのも、秦氏が酒造りを得意としたためだ。醸造技術は当時の最先端テクノロジーであり、秦氏は大陸から日本に酒造や養蚕、機織りなど多くの技術、知識を伝える役割を果たした。<日本書紀>には15代応神天皇の代に弓月君(ゆみつきのきみ)が一族の大集団を率いて百済から渡来したという記述があり、この子孫が秦氏だとされる。一族で最も有名なのは聖徳太子の側近的な立場で活躍した秦河勝である。河勝と聖徳太子の出会いは推古天皇11年(636)のことで、聖徳太子が入手した仏像を河勝から貰い受け、蜂岡寺を建立して安置したことから交流が始まったといわれる。物部守屋と蘇我馬子の戦乱では聖徳太子に従って蘇我氏側として参戦し、河勝が守屋を討ったとも伝えられる。河勝が仏像を祀った蜂岡寺は、現在の太秦(うずまさ)広隆寺のことで、太秦という地名もここを拠点に繁栄した秦氏に由来する。技術力にたけた秦氏はやがて財力も蓄え、政治、経済面での存在感を強めた。都が大和(平城京)から山城(平安京)へと移った背景には秦氏の影響があったという説もある。また松尾大社ではオオヤマクイとともにアマテラスの娘イチキシマヒメも祭神とされるが、これも渡来系の秦氏が洋上での安全を願って航海の守護神である女神を祀ったものと考えられている。