SHOP BLOGアソビねっブログ

エリザベス洋装店のブログ

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?2.

在来の神々への信仰と、伝来した仏教との融合(神仏習合)は早くも奈良時代からみられ、神宮寺の建立や神前読経が行われました。そして、現代においても、七五三など人生の節目には神社にお参りし、祭儀は仏式で行うというように生と死の領域で両者はすみ分けられています。こうした<共存>が可能となった背景には、日本独特の宗教的風土がありました。中国、朝鮮半島を経由して日本列島に仏教がもたらせたのは、古墳時代後期の6世紀半ばのことです。当時の大和政権と密接な関係にあった百済の聖明王から仏像、経論が献上されると、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏による争いを経て、仏教は外国から渡来した神<蕃神>(あたしくにのかみ)として受容されます。豊かな自然に恵まれた日本の国土では古来、自然物や自然現象に神(霊魂)の存在を認めるアミニズムが発達しました。たとえば福岡県の宗像大社、沖津宮は玄界灘の沖ノ島を、奈良県の大神(おおみわ)神社は三輪山をご神体として祀っており、いずれもその周辺から古墳時代の祭祀(さいし)遺跡、祭祀遺物が発見されています。このようにして多数の神が存在する日本の宗教的風土は、仏を神の一つとして受け入れる寛容さを持ち合わせていました。神の原像を共同体の外部から訪れて恵みをもたらす<まれびと>に見出したのは国文学者の折口信夫ですが、仏教の仏はまさに<まれびと>としての神だったのです。

日本ではなぜ神棚と仏壇が一つの家に存在するのか?1.

問題、日本列島に仏教が伝わると、在来の神々への信仰もいろいろな影響を受けることになった。在来の神々への信仰と仏教の間には違いがあったにもかかわらず、両者の共存が可能となった理由について、60字以内で述べなさい。(2015年度、東京大学、改題)。正解、自然物や死者の霊を祀る多神教的な風土の下、仏教は在来の祖先崇拝と結びつき、呪術的な信仰として受容されたことによる。(57字)

琴平おばあちゃんbyべネシアスタンリースミス

たくさんの美しい山や森林に恵まれた日本は、ハイキングするには最適の国です。国土の70パーセントが山林ですから、電車や車にちょっと乗ればどこかの山や森に行き当たります。私の場合は、山の頂上を目指すことより、森の中で静かな自分だけの時間を楽しむために野山を歩きます。日によっては、体がだるく感じ、つらくて歩きたくないと思うこともあります。でも歩き出してしばらくすると体が温まり、筋肉や関節がほぐれ、体中を血が巡っていくのを感じます。そうなるとだんだん楽になり、足取りも軽くなります。一日中山歩きをすると、エネルギーが満たされ、10歳は若返ったような気分になるものです。山を歩いた日の夜は、寝室に上がると、あっという間に深い眠りに落ちます。我が家の近くにある金毘羅山の中腹に琴平新宮社という小さな神社があります。山道を歩けなければいけない神社なので訪れる人は少なく静かで落ち着いた神社です。そこを通って金毘羅山に登るコースは、私のお気に入りのコースの一つです。琴平神宮社にはいつも境内の掃除をしたり、お祈りをしているおばあちゃんがいます。私は彼女のことを<琴平おばあちゃん>というニックネームで呼んでいました。ある日、琴平神宮社に登っていくと、琴平おばあちゃんが、お茶とお菓子を進めてくれました。お茶を飲みながら、どうして琴平おばあちゃんがここに毎日来ているのか、思い切って尋ねてみました。琴平おばあちゃんは大正13年生まれで、85歳になるそうです。40年間、雨の日も雪の日も、また台風の時もほぼ毎日欠かさず、琴平神宮社へ来るそうです。住んでいる家はかなり離れており、静原という金毘羅山の西側の町までバスに乗り、そこから山道を登って通っているということです。琴平新宮社に毎日通うようになったきっかけは、ご主人のがんでした。ご主人に治ってほしいという願いを込めて、琴平おばあちゃんは毎夜お参りしました。思いは通じ、ご主人はがんを克服することができました。その後、数年間は、元気に暮らすことができたそうです。こんなにも琴平おばあちゃんが元気なのは毎日山を歩いていることと、大きなことでおいのりしていることがきっと体と心にいいのだろうと思いました。ある日、私の友人の竹林正子さんがディーンコーエン著<いくつになっても脳は若返る>という本を進めてくれました。コーエン博士は、長年の臨床経験に基づいて年齢を重ねても豊かで充実した生活を送れるといっています。まず、日々の運動が大切であることが指摘されています。運動をしなければ、体の筋肉や器官は徐々に衰え、心臓発作や関節炎、高血圧、アルツハイマー病へとつながることもあるようです。山登り、散歩、水泳、サイクリングなどの有酸素運動は、新しい脳細胞の成長を促し、脳を発達させるということです。また細胞エネルギーを作り出すコエンザイムQ10を体内で増やす効果もあるといわれています。この物質は、もともと体の中にあるもので、エネルギーを生み出すための酵素を助ける補酵素だとのことです。琴平おばあちゃんを見習って、私も年を重ねるにつれ、より意識してウォーキングの時間を作るようにしています。

暗い穴から抜け出して2byベネシアスタンリースミス

数日後、ウイリアムズ先生は私を音楽室に連れて行き、オーディションを受けさせてくれるよう、音楽のフランクリン先生に頼んでくれました。フランクリン先生は小柄で、恰幅が良く、白髪交じりで、丸井金縁メガネをかけていました。部屋には、ほこりのたまった楽譜の山と黒くてピカピカの大きなグランドピアノがありました。好きなフォークソングを尋ねられた私は、ちょっと考えてから、イギリスのわらべ歌<ラベンダーは青い>と答えました。フランクリン先生は<短い歌だね>と微笑みと、高いキーで伴奏を始めました。歌い始めると我ながら、高音が出るのに驚きました。歌い終わると、二人の先生が笑顔で拍手をしてくれました。<とてもよかった。きれいな声だね>とフランクリン先生が笑顔で拍手をしてくれました。歌っている間は悲しみが和らいでいたことに気づき、私は少しうれしくなりました。部屋に戻ると、心の奥で父の声が聞こえたような気がしました。<ベネシア、何か素晴らしいことを見つけて生きていくんだよ。いつも見守っているから>私の心の中で何かが溶け出し、みるみる涙があふれました。そして気づいたのです。こうやって小さな部屋にこもって、<不公平だ。なんでこんなに苦しいの>と暗く悲しみに浸っていたら、人生を無駄にしてしまうのだと。このくらやみのせかいでじぶんをみうしなったら、わたしにとってたいせつな三人を悲しませてしまうことになる。三人とも私のことを思い、いつも笑顔が絶えないようにしてくれたのに、、、。古びた真鍮製のベッドから私は起き上がり、庭へ散歩に打かけました。数日後の朝礼で、オーディションの結果が発表されました。私の学年からは、ターシャ、ダイアナ、そして私の三人が選ばれ、皆の拍手に感激していました。拍手が収まると、校長先生が笑顔でこう告げました。<今年の<マタイ受難曲>のソリストは、ベネシアスタンリースミスです。>みんなの歓声に私も笑顔になりました。私がソリストなんて信じられない!その日からフランクリン先生はイースターのリサイタルのため、個人レッスンをしてくれることになりました。私はこの出来事を手紙でディンディンに知らせました。母に解雇されたディンディンは娘のアレクシナと家を出て、病院で高齢女性の介護職に就いていました。私はどうしてもディンディンに会いたくて、時々母に隠れるようにして学校の休暇中にあっていました。オーディション合格は、私にとって大きなターニングポイントになりました。抑うつ状態から抜け出すことができたのですから。辛くて耐えることしかない時期もありますが、やがて、それを乗り越えるきっかけとなるものと出会えるものです。自分に起こる出来事は、人間として成長するために必要なことが起きているのではないでしょうか。私の場合は、ウイリアムズ先生とフランクリン先生が、閉じこもっていた私をより広い世界に引っ張り出しでくれました。心から感謝しています。でも、あの時、私が閉じこもることに執着していたら、抜け出せなかったかもしれません。<暗い穴から抜け出したい>という願いがあり、心の目を閉ざさず、人生には必ず希望があるとどこかで信じていたから、抑うつ状態から抜け出すことができたのだと思います。

暗い穴から抜け出して1byベネシアスタンリースミス

人間だれしも生きていれば、物事が思い通りに進まず悩んだり、夢が破れたり、愛する人をなくしたりなど、悲しい経験をします。私は13歳の時、つらい出来事が立て続けに三つも起こり、一年ほど抑うつ状態に陥りました。そこから抜け出すきっかけとなった話を始めましょう。最初のつらい出来事は、母が三番目の夫と離婚したこと。大好きな継父のダドリーと私は分かれることになりました。その数か月後には、実父のデレクが、42歳の若さで心臓発作を起こし、タクシーの中で突然亡くなりました。さらに翌年の夏には私が敬愛していたフランス人の乳母ディンディンと別れることになりました。私たち兄弟が彼女になつきすぎていると思い、母が解雇してしまったのです。私たち兄弟は、生まれた時からディンディンに面倒を見てもらい、わが子のようにかわいがってもらっていたので、彼女は母親も同然でした。そのディンディンに会えなくなると知り、私は悲嘆にくれました。人生はなんて残酷なのでしょう。当時私はヒースフィールドという寄宿舎制の女学校に在籍し、三人のルームメイトがいましたが、寮長は私を一人にさせたほうが良いと考え、きれいなバラ園を見下ろす小部屋に移してくれました。けれど、バラを見ても私の気持ちは晴れません。夜になると私はさびしくて、どうやって生きていければいいのか、わからなくなります。毎朝、目が覚めても憂鬱で誰にも会いたくありませんでした。母はすぐに再婚し、末の妹と子ルシンダを身ごもっていたので、私のことを心配する余裕はありません。その年は、ほとんど自室にこもって、窓からバラ園や、大きな杉の木立を眺めて過ごしました。私はこの時期に、かって父が読み聞かせてくれた古典小説を読み漁りました。物語の世界に没頭すれば悲しみを忘れられるのではないかと思って、、、。早朝に若い体育の先生、ミスウイリアムズのところにおしゃべりをしに行くこともありました。寮長室の近くに先生の部屋があり、とても聞き上手な方でした。私は暗い穴にはまって出られない状態でしたが、先生は私の話を静かに聞いてくれました。ある日ウイリアムズ先生から学校の聖歌隊のオーディションを受けてみてはどうかと提案されました。その年は、イースター前に歌うことが恒例となっているバッハの<マタイ受難曲>のソプラノを募集していました。とても上手に歌えるとは思えないと答えましたが、先生は<やってみないとわからないわよ>と微笑みました。ヒースフィールドにはビクトリア朝様式のチャペルがあり、毎日、朝食後と夕食後の二回、全校生徒が集まって、お祈りや賛美歌を歌う習慣がありました。チャペルの窓はゴシック様式のステンドグラスで、木製の座席と立派な古いパイプオルガンがありました。私は静寂と不安に包まれたチャペルをたまに訪ねては<この暗い穴から抜け出せるよう、私をたすけてください>と淡いキャンドルライトの中で、神様に祈ったものです。