アソビねっブログ

日本人に謝りたいbyモルデカイモーゼby中丸薫 2017/03/26
かってジャンジャックルソーが、<この地球上で一番の理想的な国家があるとすれば、それは君民共生という世界だろう>と指摘しました。しかし、そのような国があるはずはないから、その次に良い国を作ることができる民主主義を広めるしかないだろうという結論に至るわけです。ルソーの想像力は的を射ていました。君民共生の国は存在しえないとしたのは間違いでした。君民共生の国が理想的だとしたのは正解です。第二次世界大戦直後、マッカーサーと一緒に日本に来て、GHQの労働局長を務めたモーゼという方が、<日本人に謝りたい>(日新報道、1999年)という本を書いています。彼はユダヤ人で、闇の権力の一因でもあったのでしょう。彼はその本の中で、ヨーロッパのハプスブルグ家にしても、ロシアのロマノフ王朝にしても君民共生の国ではないから、我々がつぶしたと告白しています。そのために共産党も我々が起こして革命につなげたと。同様に日本の天皇家もつぶそうとした。ところが日本は理想の君民共生の国だったので、つぶすための仕掛けをたくさん仕込んでしまったことに良心を痛めたのです。闇の権力の一因だったとはいえ、まじめな方だったのでしょう。神と人間の間を取り持つ祭司に、もともとは権威もないのです。天皇は率直な気持ちで、誠意を持って国民のために祈る。これが共生です。ただみんなのためにいつも祈ってくれるのですから、自然に国民はその司祭を敬うことになる。これが権威につながります。そして<君民共生>となるのです。アメリカ占領軍のトップ、マッカーサーに天皇が一人で会いに行った時のその二人がうつっている写真は教科書にも載っていたでしょうか。日本の自虐史観では、大柄のアメリカ軍人の軍門に降(くだ)る小柄な日本の天皇という構図なのでしょうが、実際は違います。マッカーサーは、昭和天皇が<全責任は私が負います。国民のことはよろしく>といったのを見て、<私はその時に神を見た>とメモワールの中に記しています。率直な感想だと思います。じつは往年の軍人は若き日本の君主に圧倒されていたのです。写真も、よく見ると<権威>に圧倒的な差があります。昭和天皇に圧倒され、感動したマッカーサーは、早速に日本への支援物資などを手配しました。モーゼも、これを見て<日本こそが本当の君民共生の国ではないか>と確信したそうです。昭和天皇には後日、アマテラスが降臨し、武器の放棄と戦争の放棄を宣言します。江戸時代末期に国際デビューし、次第に列強と肩を並べ、日清日露の戦争に勝利し、満州国を建国、アジア太平洋地域に広大な権益を獲得した日本が、この時大胆に方針を変えるのです。この発想の転換ができるのも、アマテラスがいたからこそ、また連綿として2600年も一つの王朝が続いてきたことによるでしょう。そういう意味でも憲法の第9条は変えてはいけません。天上界もそういっています。自民党の改憲案も、9条の第一項、第2項は触ってはいません。ですが万が一、アメリカの軍事行動に日本も巻き込まれるような憲法、法律に代わるようでしたら、もう日本はアメリカの属国になってしまいます。天上界では、日本はもうアメリカから独立する時期であり、そうでなければ世界を救えないといっています。

by 6014D | 2017-03-26 07:24 | コメント(0) | 未分類


アシュケナージby中丸薫 2017/03/24
アシュケナージとは、モーゼの民とは関係なく、複雑な民族の興亡の中で、中央アジアのハザール(汗国)で発生しました。ある時、ハザールは周辺の国々との関係で、国教をイスラム教にするかキリスト教にするかを迫られ、報復が怖くてイスラム教もキリスト教も選ばず、ユダヤ教にすることに決めたことが、その始まりといわれています。7,8世紀のことです。彼らは強烈な選民思想と高い才能を強みに、おもにヨーロッパに広がり勢力を伸ばしました。白系トルコ系ともスラブ系ともいわれますが、いずれにしても中東に発生した生粋のユダヤ人とは異なる人々です。彼らは移住した各地で迫害を受けるかと思えば、地域経済を支配したりという中で、人脈と財力で裏からヨーロッパの王族をも動かせる力を蓄え、ついには世界中を牛耳る闇の勢力、権力へとつながる人々です。なぜ、彼らがこのような力を持ちえたのかにも理由があります。ハザール汗国のあったあたりは、それ以前にUFOが降り立って彼らによって作られた文明のあった地域なのです。メソポタミアなど古代文明が発展したところも宇宙人が作った文明を引き継いだといわれますが、この地域も”元”があったということです。中央アジアの人口は多くありませんので、メソポタミアや、エジプト、黄河のようにはなりませんでしたが、アシュケナージたちが人知れず受け継いでいたのです。今のイスラエル人は、ほぼこのアシュケナージの人たちです。第二次世界大戦後に中東のごたごたに乗じて建国しました。新たな国が中東に興せるという状況を作り出せたのも、アシュケナージたちの国際的な力のためでしょう。経済的に羽振りがいいのはアシュケナージの人たちです。アシュケナージの代表的な人間といえばアメリカのキッシンジャーやイスラエルのネタ二エフ首相とか、国際金融を動かしているようなファンドマネージャーなどがそうです。イスラエルの中にいる生粋のユダヤ人たちは二級国民のように扱われています。なので、アメリカなど世界にいる生粋のユダヤのラビたちは、イスラエルの存在を非難しています。あれは自分たち、ユダヤの国ではないと怒っているのです。本来のユダヤ人という人たちは善良です。実はパレスチナ人も元はユダヤ人なのです。今はイスラム教に改宗していますが、血族としては生粋の人たちなのです。

by 6014D | 2017-03-24 08:09 | コメント(0) | 未分類


日本人は古くから<怨霊>を信じてきたby井沢元彦 2017/03/24
日本はもともと天皇が納める国でした。それが平安末期に台頭してきた武士に政権を奪われて以来、天皇が日本の統治者の座に就くことはありませんでした。その失って久しい政権が再び天皇の手に戻ってきたのが、徳川幕府を倒した大政奉還です。ではなぜ天皇は政権を武士に奪われてしまったのでしょう。歴史的に見れば現実的問題がいろいろあったのですが、天皇家がこれこそが政権を失った理由だと信じていたのが<崇徳上皇のたたり>でした。崇徳上皇は保元の乱(1156)で後白河天皇に敗れ、讃岐の国(現在の香川県)に流され、そこで天皇家を呪いながら亡くなりました。彼はなくなるときに呪詛の言葉を残しています。<日本国の大魔縁(だいまえん)(大魔王)となり、皇(おう)を取って民となし民を皇となさん>つまり、自ら怨霊となると宣言したうえで、天皇を民の位に落とし、民を政権の座に据えてやる、と呪ったのです。この言葉は、その後まもなく、武家政権、鎌倉幕府の誕生という形で成就します。憂くなくとも天皇家の人たちは崇徳上皇のたたりによって政権を奪われたと信じ、恐れました。その後も足利、織豊(しょくほう)、徳川と施工者は移り変わりますが、天皇に政権が戻ることはありませんでした。つまり天皇家の人々からすれば、崇徳上皇の呪いは幕末に至るまでずっと効力を発揮し続けていたのです。明治天皇は、大政奉還が鳴り、自らの治世ヲ正式に聞くに当たり、怨霊となった崇徳上皇の御陵に勅使(ちょくし)を派遣しています。この時、明治天皇が崇徳上皇の霊にお願いしたのは許してもらうことだけではありませんでした。許すと同時に、自らの政権を守ってくれるようにお願いしているのです。このことは宮内庁の正式な記録にも残っている事実です。今まで自分たちを苦しまて来た相手に守ってくれるようにすがるのは少し不思議な気がします。しかし、われわれ日本人は恨みを抱いて亡くなった人や、非業(ひごう)の死を遂げた人の魂は、死後<怨霊>となって人々に厄災をもたらす存在<怨霊>として恐れてきました。そして、怨霊を恐れるがゆえにどうにかしてその荒ぶる魂を<鎮魂>しようと考えました。苦心の末、生まれた鎮魂方法が怨霊を神として祀る怨霊信仰なのです。怨霊信仰については、藤原氏に追い落とされ不遇をかこった菅原道真をはじめ平安時代に記述が多いのですが、信仰自体はもっと古くから存在していました。<御霊信仰<<御霊会>という形になるまでに、様々な<対怨霊政策>とでもいうべきものが行われました。最も顕著な例が2010年に<平城遷都1300年祭>を迎え、多くの人々が訪れたなら東大寺の大仏です。なぜ大仏が作られたのか、正確な記述はありません。大仏が対怨霊政策に一つとして造られたことは明らかなのです。

by 6014D | 2017-03-24 07:12 | コメント(0) | 未分類


日本人はなぜ人と競争することが嫌いなのかby井沢元彦 2017/03/24
聖徳太子が<和をもって貴(たっと)しとなし>と語るずっと前から、日本人は<和>を大切にしていました。世界でも珍しい<国譲り神話>は、そのことを雄弁に物語っています。大和朝廷を作った人々は、政権成立当初から<和>を理想として掲げていました。が、彼らはなぜそこまで<和>を重んじたのでしょう。反対の意味から考えてみましょう。<和が乱れる>ことは<競争する>ということです。競争すれば、そこには必ず勝者と敗者が生まれます。敗者は当然のことながら、勝者に恨みを募らせます。そして、その恨みをそのままほおっておいたらどうなるかー怨霊(おんりょう)が生まれてしまうのです。長屋王のたたり、早良親王(さわらしんのう)のたたり、崇徳(すとく)上皇のたたり、菅原道真のたたりなど、奈良、平安時代の人々が、強く怨霊を恐れ、様々な鎮魂方法を試行錯誤しながら編み出していきました。大和朝廷を作った人々は、怨霊を強く恐れたがゆえに、彼らは、そもそも怨霊を生み出さないようにするためにはどうしたらいいのかと考え、<和>を重んじるようになったのです。これは怨霊を一種の病気だと考えるとわかります。怨霊を鎮魂することは、彼らにとっては病気を治療するようなものなのです。もちろん、治療は必要だし、とても大切なことですが、最も理想的なのは、やはり病気にならないことです。この場合で言えば、そもそもの<恨み>を生みださないようにする、ということです。インフルエンザになってから治療するのは大変ですが、かかる前に予防接種をしていれば、そもそもインフルエンザになって苦しまずに済むのですから、そのほうが理想的な対処法であることは間違いありません。こうして怨霊という恐ろしい病気を予防する方法として生まれたのが、人と競争しないこと、協調性を持つこと、つまり、<和を大切にする>ということだったのです。

by 6014D | 2017-03-24 07:07 | コメント(0) | 未分類


,<大和>という字の由来by井沢元彦 2017/03/14
オオクニヌシノミコトはアマテラスの孫へ国を譲り渡すことを最終的に決断しました。神話では<話し合い>によって譲渡されたとされていますが、実際には、やはり戦争をしたのだと思います。出雲大社からさほど遠くない島根県簸川郡斐川町(現、出雲市斐川町)神庭西谷(かんばさいだに)の小さな谷間では、大量の銅剣が発見されています。遺跡は谷の名前をとって<荒神谷(こうじんだに)遺跡>と名付けられました。国譲りの実態は、優れた武器<鉄器>を持った侵入者による侵略戦争だったということです。この鉄器を持った侵略者が<天皇家>のルーツである<大和族>であり、彼らがオオクニヌシ率いる<出雲族>を征服したのだと思います。もちろん神話にはそう書かれていません。それは侵略者である彼らの中にも自分たちが行ったことはいけないことで、理想は話し合いによる譲渡だ、という考え方があったからなのだと思います。だからこそ神話では、戦争で相手を殺して奪った結果ではなく、話し合いで平和に譲られたのだというストーリーにしたのでしょう。日本人に染みついている<和>という価値観は、日本ができた当初から、より具体的に言えば、大和朝廷が成立したころには、日本人の基本コンセプトとして存在していたということです。それは日本の国名を表す<大和>という文字を見ても、よくわかります。ふつうは<大和>と書いて、<やまと>とは読めないからです。<大>と書いて<ヤマ>と読むことも、<和>と書いて<ト>と読むこともありません。つまり、先に<やまと>という音があって、後から、<やまと>という音に最も意味のあった漢字を当てはめて<大和>と書くようになったと考えられるので、大陸から鉄器とともにやってきた人々は恐らく自分たちのことを、<ヤマト>と称してたのでしょう。彼らヤマトは、まず出雲の国を倒し、次いで吉備(きび)の国を倒し、というように、次々と自分たちに従わない人々を滅ぼし、一つの国を作り上げました。そして、国の名前を付けると彼らは自分たちが理想とする<和>のコンセプトに、大きな和を成し遂げる国という意味で<大和>という字をあてたのではないでしょうか。

by 6014D | 2017-03-14 11:45 | コメント(0) | 未分類



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